碾玉観音(三)


 

 「おっと」
 崔寧が相手の体を抱きとめる形になった。ぶつかって来たのは女である。ぶつかったはずみに女が胸に抱えていた風呂敷包みが床に落ちて、ガチャリと音を立てた。
「秀秀さんじゃないか」
 相手は驚いて慌てて二、三歩下がって、
「崔様」
 と相手を認めて安堵の表情になった。
 この二人、片やお抱えの職人、片や奥向きの侍女ということで本来ならば面識はないはずなのであるが、実は先日、王府で開かれた内輪の月見の宴で郡王は崔寧に秀秀を引き合わせて、
「秀秀の年季が明けたら、お前の嫁にやろう」
 と約束してくれた。その場に居合わせた人はみな、
「お似合いの夫婦になりますな。殿様もイキなはからいをなさる」
 と口を揃えて褒めそやした。
 何と言っても崔寧はまだ独り身の若者、秀秀の花のような美貌を見て心が動かぬわけがない。また、秀秀の方も崔寧の職人らしからぬあか抜けた風貌を一目で気に入り、明日にでも年季が明けないものかと思うようになっていた。
 その矢先に火事騒ぎとはいえ、二人きりで顔つき合せることになったのである。秀秀は急いで風呂敷包みを大事そうに抱え直すと言った。
「ああ、ここでお会いできてようございました。他の人は皆逃げてしまいましたわ。私はぼやぼやしていて逃げ遅れてしまったんです。お願いです、しばらく身を寄せさせていただけないものでしょうか」
 もちろん崔寧に否やがあろうはずもなかった。二人は火の手の迫る王府を後にした。
 二人は河に沿って崔寧の家へと向った。秀秀の小さな足では歩くのに難渋(なんじゅう)した。石灰橋に差し掛かった時、秀秀は、
「崔様、足が痛くて痛くて…。もう一歩も歩けないわ」
 と訴えた。崔寧は橋の向こうを指差して、
「もう少しで私の家です。頑張って下さい。家に着けばいくらでも休めますから」
 と励ました。ようやく崔寧の家に到着した。家と言っても部屋は一間きり。小さな卓が一つあるだけである。足の痛みを訴える秀秀をまず寝台に坐らせて落ち着かせた。すると、秀秀は今度は、
「お腹が空いて背中とひっついちゃいそう。ねえ、崔様、何か夜食を買って来て下さいな。それと気付けのお酒も。さっきの火事騒ぎでまだ心の臓がドキドキしてますもの」
 と言い出した。崔寧はやれやれと思いながら、近くの居酒屋へ夜食と酒を買いに走った。買物を済ませて戻ると、待ちかねていた秀秀にまず、二、三杯飲ませてから、自分もその隣に坐ってお相伴をした。
 秀秀は酒が回ったようで、目の縁をほんのり紅く染めていた。下世話にも「酔った勢い」と言う。酒は人を大胆にする。秀秀も日頃の慎ましさを棄てて、大胆になっていた。
 秀秀が言った。
「ねえ、崔様、あのお月見の時に殿様は私をあなたに下さる、とおっしゃいましたわね。憶えていらして?」
 崔寧は拱手して、
「ええ、もちろん憶えております」
 と答えた。秀秀はその声に微かな媚びをにじませて続けた。
「あの日、皆さん、私達のことをお似合いだとおっしゃって下さいましたわ。お忘れじゃありませんね?」
 崔寧は、
「はい」
 と肯いた。秀秀は崔寧ににじり寄ると、
「私の年季明けなんてまだまだ先ですわ。ただ、のんべんだらりと待つよりは、いっそのこと今夜ここで夫婦になってしまいましょうよ」
 と言った。崔寧はこの申し出にびっくりして、
「ええっ?そ、そんなことできませんっ!!」
 と震え上がった。秀秀は眉を釣り上げて立ち上がると、
「できない、ですって?もう一度言ってごらんなさい、私、大声を上げるから。私をここに連れ込んで何をしようとしたのかしら?こんな夜遅くに男と女が一つ部屋にいるってどういうことかしら?これは何かしら?」
 と言って、大事に抱えていた風呂敷包みの中身を寝台の上にぶちまけた。金銀細工に珠玉など小さいながら金目のものばかりである。
「私、明日、王府へ参上して殿様に申し上げるわ。崔様が火事場泥棒をした挙げ句、私までさらって行ったって。ようく首を洗って待つことね」
 ほとんど脅迫である。結局、崔寧は押し切られる形で秀秀に従うことにした。ここに二人は夫婦となったのである。
 夫婦の契りを済ませた後、崔寧が言った。
「秀秀さん…、いや、秀秀、私達はもう夫婦だ。しかし、ここは二人で住むには狭すぎる。それに、殿様はお前のいなくなったことに気付いたら、きっと追手をかけるだろう。ここはあの火事騒ぎに乗じてこのまま臨安を離れた方が良いと思うのだけど」
 秀秀は崔寧の胸に身を預けると、
「私はあなたの妻。あなたのおっしゃる通りに致しますわ」
 と答えた。
 四更(注:午前二時)を回った頃、二人は金目の物をまとめて闇に紛れて家を後にした。金目の物と言っても、秀秀が火事のどさくさに紛れて王府から盗み出した品物である。この晩は火事騒ぎで城門も開け放たれたままで、誰にも見咎められることなく臨安を離れることができた。追手がかかることを怖れ、臨安から少しでも遠くへということで夜を昼についでひたすら進んだ。
 二人は交通の要衝である衢州(くしゅう、注:現在の浙江省)へ到着した。
「ここは街道の要衝だ。ここまで来れば、もうどこへでも行ける。さて、どの道を行こう。信州(注:現在の江西省)なんてどうかな?玉磨きで食べて行こうと思ったら、知り合いのいる信州がいいな、やっぱり」
 という崔寧の考えで二人は信州への道をたどった。信州へ落ち着いて数日経つと、
「信州は人の往来が激しいから、ひょっとすると臨安の殿様の耳に入るかもしれない。ここは別の場所へ行った方が良さそうだ」
 と考え直して、慌ただしく信州を離れて、今度は潭州(たんしゅう、注:現在の湖南省)へと向った。
 二人は潭州に着くと、すぐに家を借りた。表には
「臨安崔親方の玉細工工房」
 と看板を掲げた。
 ようやく落ち着いた崔寧は秀秀に、
「ここなら臨安から二千里も離れているから、殿様の追手だってここまでは来ないと思うよ。やっと安心して生活できる。いつまでも一緒にいられるよ」
 と言って安心させた。
 潭州にも臨安から赴任して来た役人が何人もおり、崔寧が臨安から来た親方だと知ると懐かしがって仕事を依頼してきた。また、地元の金持ちも臨安の職人だというので珍しがって仕事を依頼してきたので、二人の生活は日に日に豊かになっていった。
 崔寧は常に臨安の郡王府の消息について神経を尖らせていた。人づてにあの火事騒ぎの時に郡王府の侍女が一人行方不明になり、郡王は賞金を懸けて探している、という情報を入手した。しかし、崔寧が秀秀と一緒に臨安を逃げ出して潭州に来ていることは誰にも気付かれていないようであった。

 光陰矢のごとし、瞬く間に一年が過ぎた。ある朝、店を開けると二人の黒衣のお仕着せを着た男が入って来た。いでたちから見て、高官の副官のようである。一人が崔寧に尋ねた。
「臨安の崔親方がいらっしゃると聞いてうかがってきたのですが。細工をお頼みしたいのです」
 仕事の依頼であった。崔寧はこの二人の男に伴われて、依頼主の屋敷へと向った。そこで、依頼主と対面して細かい仕事内容の打ち合わせを済ませて、帰路についた。
 その途中、崔寧は思いがけず一人の男と出くわした。

 

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