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二郎神君の靴(三)


 

 尉夫人が用を済ませて拝殿に戻ると、祭壇の帳の前に韓夫人が放心したように立ちつくしていた。
「どうかなさいましたか?またご気分でも悪くおなりでは…」
 太尉夫人が後ろから声をかけた。ハッとして韓夫人が振り返った。その頬は酒に酔ったように紅くなっていた。
「いいえ、何でもございません」
 韓夫人は慌てて打ち消した。それから帳に覆われた祭壇をうっとりと見上げて言った。
「私のお祈りは届くのでしょうか?」
「霊験あらたかですからその点はご心配なく」
 太尉夫人は請け負った。
「だといいのですが…」
 この韓夫人の最後のつぶやきは太尉夫人の耳には聞こえなかった。

 一行は日暮れすぎに邸に戻った。韓夫人は太尉夫妻と分かれて西園へ引き取ると、着物を着替えて髪を解いた。侍女達を下がらせて一人になった彼女は頬杖をついて黙然と物思いに耽った。その頬は上気し、瞳は潤んでいた。寝衣に包まれた胸が切なげに上下し、時折、吐息を漏らした。韓夫人は二郎神君の祭壇で見たものを思い返した。
 祭壇の帳の向こうに安置されていたのは二郎神君の神像であった。色を塗った塑像ながらその姿はたくましく、生き生きとしていた。金糸の縁取りを施した頭巾に包まれた顔は風雅な美男子そのもので、今にもその切れ長の目に笑みを浮かべて、引き締まった口元からは白い歯並がのぞきそうであった。
 韓夫人の両の頬に紅が散った。軽いめまいと共に心の臓が高鳴るのを感じた。そして、思わず口の中でつぶやいた。
「もし、私に未来があるのなら、神君様のような殿御と添い遂げとうございます。ほかのことは望みません…」
 韓夫人は神像の美貌に一目で魅せられ、恋してしまったのである。
 韓夫人はホッとため息をつくと、侍女を呼んで香机を庭園の人気のない場所に運ばせた。そして侍女に香机は明朝片付けるように言って下がらせてから、香を焚きながら祈った。
「二郎神君様、まだ私に生きることをお許し下さるのなら、神君様のような方と添い遂げとうございます。もう宮中にいた時のような、苦しく寂しい思いなどいたしとうございません」
 何度も繰り返して祈っているうちに、涙があふれて頬を伝った。韓夫人は酔ったように繰り返し祈った。その時、背後で何やら物音がした。振り返った韓夫人の目の前に二郎神君が立っていた。
 その姿は昼間、祭壇で盗み見た神像と寸分違わなかった。ただ違うのは手に弾き弓を持っているくらいである。韓夫人が息を詰めて見つめていると、二郎神君の唇がほころんで白い歯がのぞいた。韓夫人は弾かれたようにその場に跪いた。
「神君様のご降臨を賜り、感激に堪えません。どうぞ、部屋へお通りになって私の拝礼をお受け下さい」
 二郎神君はニッコリと微笑み、韓夫人の手を取った。韓夫人は何が何だかわからなくなり、気が付くと部屋で二郎神君の前の床に額づいていた。しばらくすると涼やかな声が降ってきた。
「昼間は結構なものをいただき、かたじけない。たまたま夜の散歩に出たら下界からそなたの祈りが聞こえて、それで降りてきたわけだ。そなたは実は瑶池の仙女だったのだが、俗界への憧れが甚だしかった。そこで、天子の側近くで俗世の栄耀栄華を尽くさせようとの玉帝の思し召しによって下界に流されたのだ。そろそろその期限も満ち、天界の本来の地位に戻る頃だ」
 韓夫人は平伏したまま二郎神君の言葉をありがたく聞いた。そして、
「お恐れながら、神君様に申し上げます。私は宮中になど戻りたくはございません。私は昼間、神廟で神君様のお姿を垣間見て思わず心を奪われてしまいました。このような気持ち、初めてでございます。今はただ、ただ、神君様に似た殿御と添い遂げることだけを望んでおります。そうできましたなら、ほかには何もいりません」
 韓夫人はそう言って顔を上げた。二郎神君は涼やかな笑みを浮かべたまま、韓夫人を見下ろしていた。見つめられて韓夫人は頬を赤らめた。二郎神君は膝をつくと、韓夫人の手を握った。
「それなら簡単だ。そなたが志をしっかり持ちさえすればそれでいい。縁は定まっているから安心なさい」
 言い終えると、二郎神君は窓枠を乗り越えて姿を消した。部屋には頬を上気させた韓夫人だけが残された。

 

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