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二郎神君の靴(四)


 

 いもよらぬ二郎神君の登場に韓夫人の心は昂ぶった。床に就いて灯を消したのだが、神経が昂ぶり、眠ることなどできなかった。
「神君様も残酷だわ。私の心はお見通しのはずなのに、何をするわけでもなくあっけなく帰ってしまわれるなんて。もしかして神君様は万事に超越していて、俗世の凡人のような感情をお持ちでないのかしら」
 韓夫人はあれやこれやと考えながら、寝床の中で転々としていた。
「でも、あの神君様のお姿は生身の人間と変わりなかったわ。普通に笑い、普通に話しかけてきた。なら、この私の美貌を見て心を動かされないはずないじゃない。きっと、神君様には私の姿がよく見えなかったにちがいない。これだけ美しい私がその気になっているところを見せれば、どんな堅物だってこちらになびくでしょう。そうよ、この機会を逃したら一体、いつまた会えるかわからないもの」
 こう自分を励ましてみたら、少し気分が楽になった。しかし、神経が昂ぶり、なかなか寝つけず、明け方近くになってようやくまどろんだ。あられもない夢をいくつか見たような気がして目覚めたら昼近くになっていた。
 その日一日、何もせず、ひたすら夜になるのを待ち望んだ。夜が更けると早速、昨晩と同じ場所に香机を用意させ、人払いをしてから香を焚いて祈った。
「二郎神君様、もう一度、お姿をお現し下さいませ。それこそ、この私にとってこの上ない幸せでございます」
 その祈りが終わらないうちに背後で物音がした。振り返ると、昨夜の二郎神君が立っていた。韓夫人はその嬉しさに昨夜来の煩悶など吹き飛んでしまった。慌てて二郎神君に向かって額ずくと、喜びにうち震える声で言った。
「し、神君様には部屋にお通り願い、申し述べたきことがございます」
 その言葉に二郎神君はニッコリと笑い、韓夫人の手を取って助け起こした。そして二人手に手を取って部屋に引き取った。韓夫人は侍女に命じて酒肴の用意をさせて、二郎神君と差し向かいで酒を酌み交わした。絶世の美男子を前にして一献、二献と飲むうちに、韓夫人の情火は抑えがたいものとなった。韓夫人は腰に下げた佩玉(はいぎょく)をはずすと、頬を心持ち赤らめながら二郎神君ににじり寄った。
「恐れ多くも神君様に申し上げます。もしもお厭(いと)いでなければ、天に帰るのをしばらくお待ちになって下さいまし。人の愛情について語り合いとうございます」
 二郎神君は手にした盃を置いて答えた。
「よろしい。語り合おうではないか」
 韓夫人は嬉しさのあまり相手が神ということも忘れて、抱きついた。

 五更(注:朝四時頃)近く、韓夫人の寝台の帳の中に動く人影があった。
 二郎神君である。二郎神君は身を起こして急いで着物をまとった。そして、目を覚ました韓夫人に向かって、
「また来るよ」
 そう言い残すと、弾き弓を手に窓格子の隙間から出て行った。

 以来、二郎神君は毎晩、韓夫人のもとに通って来ては楽しみを尽くし、夜明け前に帰って行った。韓夫人の病は二郎神君の訪れですっかりよくなっていたのだが、楊太尉に宮中に戻るよう催促されては面倒なので、まだまだ体調が芳しくない振りをして、夫妻が挨拶に来る時には決まって眉を顰め、憂わしげなため息をついたのである。

 

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