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二郎神君の靴(十)


 

「何だと?あの靴の主は蔡太師の邸の者だというのか」
 報告を受けた滕大尹は驚きのあまり飛び上がった。しかし、何度見直しても帳簿には蔡太師の名前が記されていた。
「う…むむむむ、まずいぞ、これはまずいぞ…」
 滕大尹はしばらく行ったり来たりしながら唸っていたが、王観察の背後に控えている任一郎の姿に気付くと、
「任一郎よ、ご苦労であった。くれぐれもこのことは他言無用ぞ」
 任一郎は何度も頭を下げて帰って行った。
 それから滕大尹は王観察と冉貴(ぜんき)を従えて楊太尉の邸へ向かった。折りよく楊太尉は参朝を終えて宮中から下がって来たところであった。
「太尉閣下、お人払いを」
 そこで、楊太尉は滕大尹と王観察、冉貴を自分の書斎に連れて行った。滕大尹は賊の残した靴がこともあろうに蔡太師に結びついてしまったことを説明した。
「私には処断のしようがございません」
 楊太尉もそれを聞くなり、
「困ったことになったな」
 と考え込んでしまった。
「国家の大臣である蔡太師が賊の一味とは思わぬが、この靴の出所がそのお邸とは。あそこも人が多いから不埒(ふらち)な輩が入り込んでいたのかもしれないな。ともかく太師に会って直接きいてみようではないか」
 王観察と冉貴を役所に帰らせてから、楊太尉と滕大尹は靴と帳簿を持って蔡太師の邸を訪ねた。蔡太師は二人を書斎に迎え入れた。
「で、例の件はどうなっておるかな?」
 逆に訊ねられて二人は返答に詰まってしまったが、楊太尉が思い切って告げた。
「賊は判明いたしました」
「おお、そうか。逮捕は致したのか?」
「それが、恐れながら閣下の面子にもかかわる問題でして…」
「そんなことにこだわることはないぞ。余は罪人をかばうようなことはせぬからな」
「しかし、お驚きになられることは必定」
 蔡太師は苛立った。
「で、誰が賊だというのだ?」
 楊太尉は蔡太師に請うて人払いさせると、持参した文箱を開いた。そこには任一郎の店の帳簿が入っていた。
「その紙の挟んである頁をご覧下さい。これは閣下の奥向きのことでございます。ご処断は閣下にお任せいたします。私ども外部の者の立ち入る問題ではございません」
 蔡太師はしばらく帳簿に見入っていたが、
「妙だ、妙だ」
 としきりに首をひねった。滕大尹は自分達の見立て違いを非難されているような気になってきた。そこで、
「しかしながら、これは事実でございます。私どもも三日の期限を切られておりますので、不本意ながらこうして閣下のお耳にお入れいたしました次第にございます」
 と口をはさむと、
「そち達を咎めているのではないわ。妙なのはこのことだ」
蔡太師は帳簿に書かれた「張千」の名を指で叩いた。
「これは余の女中の名なのじゃ」

 

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