二郎神君の靴(十一)


 

 太師は続けた。
「余の邸内では日用品全てに担当の女中がいて管理させておる。いつ、いくらで購入して邸内の誰に与え、どういう理由で処分したか、もれなく帳簿に付けさせて毎月報告を義務づけておるのじゃ。その靴担当の女中の名が張千なのだが、あれの名で購入したからには余の邸内の日用品というわけだ。一体、誰が使用したかが問題だが…。まあ、待て、張千に帳簿を持って来させるから」
 すぐさま女中の張千が呼ばれた。現れた張千は実務派といった感じの中年女であった。蔡太師が張千に、
「去年の三月五日に任一郎の店で買った靴はどうした?」
 と問うと、張千はてきぱきと帳簿を調べて答えた。
「宣和三年三月五日購入の分ですね。その靴でしたら買ってすぐに旦那様が亀山(きざん)先生にお贈りになられました。亀山先生が知県拝命のご挨拶にいらした時のことです。併せて丸襟の着物一揃い、銀の飾り付き革帯一本と扇を四本、お贈りになったと記してあります」
「そうだ、思い出したぞ」
 蔡太師はポンと手を打った。
「ああ、楊時(注:亀山は楊時の別号)か。あれとは科挙以来の付き合いでな。まあ、何とも見すぼらしい姿で現れたわ。ガッチガッチの学者先生で己の体面などとんと構わん男だから無理もないが、あれでは赴任先で部下にも見くびられようと思って、今言った品を餞別(せんべつ)代わりに贈ったのじゃ」
 楊太尉と滕大尹はその場に平伏した。
「太師閣下の邸内に賊が潜んでいるなどと、あらぬ疑いをおかけ申して謝罪の言葉もございません。数々の無礼な言動、さぞやお気に障ったことと存じ上げます。これも一刻も早く下手人を逮捕しようという一心からのこと。閣下の広い御心で格別のご容赦をお願い申し上げます」
 蔡太師は剛腹に笑って言った。
「いやいや、それもこれもご両所の職務熱心から出たこと。余には咎め立てる気などいささかもあり申さぬ。それにしてもあの亀山先生がこの一件に絡んでいるとはにわかには信じられぬが。あの男に限ってな。とにかく、赴任先は京師(けいし)の近くだから、早速、使いを出してこちらに出頭させることとしよう」
 二日後、使者に伴われた楊時が蔡太師の邸の門をくぐった。時候の挨拶を済ませた後、蔡太師はこう切り出した。
「知県とは民の父母の如きものぞ。その職にあるそなたが何故かようなことをいたしたのじゃ。これは謀叛ぞ、大逆ぞ」
 それから、例の一件について細かに語って聞かせた。
「…と言うわけで、そなたに贈った靴が問題になっておるのだ」
 話を聞いた楊時は椅子から立ち上がると両手を組んで腰をかがめた。その声には厳かな響きがあった。
「謹んで太師閣下に申し上げます。それがしは昨年、赴任に当たって閣下より格別なるご厚恩を賜りましたこと、一日たりとも忘れたことはございません。実はあれより赴任を前にして運悪く眼病を患い、痛苦のあまり出立できなくなってしまいました。その時、清源妙道二郎神君という霊験あらたかな神がおわすと耳にしまして、眼病平癒を祈願いたしました。病が癒えてからお礼参りに行き、神像を拝みましたところ、冠服は立派なのに靴がほころびております。そこで、閣下から頂戴した靴を奉納してきた次第でございます。これは嘘いつわりではございません。それがしは書物を読むしか能のない男にございます。盗賊のごとき振る舞いができましょうや。よろしくご推察下さりますよう」
 楊時の謹直(きんちょく)そのものといった口調の前にあらゆる疑念は消え去った。蔡太師は改めて椅子を勧めて、
「余もそちの名声は聞き及んでおる。疑ったわけではない。許せよ。ただ、あの靴の行方をじかに聞いておかねば、太尉達が納得せぬからな」
 そして、十分にもてなしてから楊時を任地に帰らせた。
 蔡太師は早速、楊太尉と滕大尹を呼びつけると叱責(しっせき)した。
「高潔なる楊知県が関与しているなどと言ったのは誰じゃ。靴の出所が判明した。出所は清源妙道二郎神君廟ぞ」
「太師閣下のご慧眼(けいがん)、お見逸れいたしました」
 楊太尉と滕大尹はその場にひれ伏したが、内心は泣きたい気持ちでいっぱいであった。結局、事件は振出しの二郎神君に戻ってしまったのである。

 

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