狐憑き


 

 府(注:現在の山西省)赤城衛の武官に郭應忠という人がいた。陜西から来た同じ武官の張某という人と懇意にしており、娘と張家の息子の間には婚約が整っていた。張家は非常な物持ちで、婚礼を挙げたら陜西へ戻るつもりであった。これに應忠は難色を示した。
「ワシにはこの娘のほかに子供がおらぬ。娘がそばにいれば安心して死ねる。いったん遠くへ行ってしまったら、また戻ってくることができようか」
 そう言って娘の輿入れは延期された。
 いたずらに時だけが過ぎていき、張家が陜西へ戻る日を翌日にひかえた晩、張家の息子と應忠の娘は手に手を取って駆け落ちした。しかし、城門に差しかかったところで衛兵に見とがめられ、娘は連れ戻された。
 別れに臨んで息子は應忠の娘に向って泣きながらこう誓った。
「待っていてくれ。絶対に迎えに来るから」
 そして、陜西へ去った。
 家に戻された娘はその日から部屋にこもり、一歩も外へ出ず、張家の息子が迎えに来るのを待ち続けた。

 駆け落ち騒動のほとぼりも冷めた頃、應忠は娘を他家へ嫁がせようとした。娘が承知しないのは火を見るよりも明らかだった。そこで、應忠は一計を案じた。
 間もなく娘のもとに張家の息子からの手紙が届けられた。それには、もう宣府には戻らないので自分のことは忘れて他家へ嫁ぐように、と書かれてあった。もとより真の手紙ではなかった。應忠が娘に諦めさせるために書いたニセの手紙であった。
 その手紙を本物と思い込んだ娘の嘆きは大きかった。嘆きが深かったあまり應忠の娘はとうとう気が触れてしまった。顔も洗わず、髪も梳かず、来る日も来る日も市中をさまよい歩いた。
「郎君はお戻りかえ」
 会う人、会う人にそう問いかけてケラケラと笑うのであった。皆は娘に狐が憑いた、と噂し合った。
 しばらくすると、今度は父親の應忠まで奇怪な振る舞いに及ぶようになった。先朝(注:明朝のこと)の官服を着込んで屋根に上がったかと思うと、棟に跨って叫んだ。
「城隍(じょうこう)神がおいでじゃ」
 明らかに物狂いの様相を呈していた。郭家では万一に備えて、父娘への看視を怠らなかった。

 ある晩、應忠は突然、刀を振り回して暴れ狂った。
「女狐を殺してやる!」
 應忠は娘の部屋に飛び込んで斬り殺すと、血のしたたる娘の生首を手に市中に駆け出した。そして、娘の首を差し上げて勝ち誇ったように笑った。
「見よ!女狐めを殺してやったわ」
 應忠は駆けつけた警邏(けいら)に取り押さえられ、ひとまず自宅に戻った。家の門に一歩入った途端、應忠は正気を取り戻した。
「ああ、ワシが殺したのは狐のはずじゃ。娘であるはずがない」
 そう叫んで娘の無残な遺体の前に倒れ伏して泣いた。
 赤城衛の守備官はこの事件を上司に報告した。どちらも應忠の人となりは熟知していたので、この件を不問に付した。
 應忠は娘の遺体を柩に納めると、その傍らに起居した。毎日木魚を叩いて経を読んでは娘の菩提を弔った。

 この事件は清の順治五年(1648)四月に起こったという。

(清『北游録』)