火車


 

 令問は開元年間(713〜741)に秘書監(注:宮中の文書・記録をつかさどる部署の長官)にまでなった人であるが、着道楽、食道楽の贅沢(ぜいたく)好みで知られていた。特にその美食を追求すること甚だしかった。素材の味を損なわないためと称しては生きながらに食材を調理するのであるから、残酷なことこの上なかったのだが、食通の教祖のような存在に なっていた。
 この令問が集州(注:現在の四川省)の長史(注:州のナンバーツー)に左遷された。失意のせいか、任地に到着してほどなく病床に臥す身となり、病状は日に日に篤くなっていった。集州刺史(注:州の長官)は李令問が都から来た名士であり、また同族に連なる身でもあることから、特例で夜間も城門を開けたままにしておき、令問の家人の出入のために便宜を計らった。
 ある夜遅く、刺史の息子が外出先から戻ってきた。城門まで来ると、遥か彼方から甲冑で武装した数百人がこちらに向ってくるのが見えた。行列は一輌の火車(注:火攻めに用いる車)を牽いており、車から燃え盛る炎が夜空を焦がすばかりであった。
「はて、夜間の演習なんて聞いてないけどなあ…」
 不審に思った刺史の息子は父に報告しに行こうと思ったが、何やら気になり、様子を見ることにした。行列はどんどん近づき、濠(ほり)に差し掛かった。そのまま水を渡っていったのだが、少しも濡れなければ炎の勢いも一向に弱まらない。刺史の息子もこの行列が幽鬼のものであることにようやく気付き、城内に逃げ込もうとしたところ、いつも開いているはずの門が閉じていた。そこで、仕方なく城外の令問の邸に難を避けることにとした。
 刺史の息子が令問の邸に飛び込むと、火車もその後に続いて門をくぐった。息子は怖くて怖くてどうしようもなかったが、その成り行きも気になり目を離すことができなかった。
 その時、母屋の方から十数人の読経の声が聞こえてきた。途端に行列の歩みはのろくなった。思うように進むことができず、しばらく足摺りをしていたのだが、行列の中から朱衣をまとった幽鬼が飛び出してきた。幽鬼は階を駆け上がると、母屋の扉を三度蹴りつけた。ものすごい音が響いたが、読経の声はおさまらなかった。
 火車はそのままゆっくりと母屋の階(きざはし)を上っていった。刺史の息子の目に、母屋の灯火の下で十数人が令問の寝台を取り巻いているのが見えた。皆、合掌して懸命に経を唱えていた。朱衣の幽鬼は窓の格子をガリガリと引っかいた。その恐ろしげな音に令問のそば近くに侍っていた人々は驚いて逃げ出した。鬼は扉から中に入ると、令問の髪をつかんで引きずり出して燃え盛る火車に放り込んだ。そして、幽鬼の行列は令問を載せた火車を囲んで、ゆっくりと立ち去った。
 刺史の息子は帰宅すると、自分が今見たものを父に逐一告げた。
 翌朝、刺史が令問の様子を見舞いに行くと、邸内はシンと静まり返っており、誰も出てこない。従者に邸中呼ばわらせてようやく姿を現した。その語るところによると、
「夕べは恐ろしい音に驚かされ、朝になっても皆おびえて部屋から出ることもできない有様です。旦那様は一体どうしておられることやら」
 探してみると、令問は母屋の西北に積み重ねられた長椅子の下に転がっていた。すでにこと切れていた。家人は取り巻いて泣き叫んだのであった。

(唐『霊怪集』)