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付け文騒動(四)


 

 大尹は皇甫松に思い直すよう説得した。しかし、皇甫松はかたくなに離縁を言い張った。確かに夫人の不義密通の確証はないが、不義を働いていないという証拠もないのである。事ここに至っては銭大尹も離縁を認めざるをえなかった。

 皇甫夫人、楊氏の不義密通事件は離婚というしっくりしない形で落着した。皇甫松は夫人の方を振り向きもせず、さっさと帰って行った。僧児と迎児も釈放され、それぞれ帰宅した。取り残された夫人は役所中の同情に見送られて一人寂しく立ち去った。彼女は役所を出ると西大街を東に向かって進んだ。もちろん行くあてなどない。あまりにも情けなくて涙がこぼれてきた。
「身に覚えのない疑いをかけられた挙げ句、連れ添った主人には離縁されてしまった。身を寄せる所もないし、これからどうしよう…」
 気が付くと州橋の上に来ていた。すぐ目の前は相国寺、開封一の繁華街である。楊氏は橋の欄干に凭れて、行き交う人々をぼんやりと眺めていた。どの位経った頃だろうか。楊氏は肌寒さを感じた。日は既に西に傾いていた。退勤時刻を迎えた官庁街から官吏達の姿が現れた。家路を急ぐ者もあれば、帰りにちょっと一杯とばかりに酒楼へ足を向ける者もあった。藍染の前掛け姿は酒楼の小僧である。手に岡持ちを下げているので、これから出前に行くのであろう。手に琵琶を抱えた中年の女がちらりと横目で楊氏を見て通り過ぎた。流しの芸人が酒楼へ上がるのである。
 誰にでもそれぞれ行く当てがあった。しかし、自分には日が暮れるというのに行き場がないのである。そう思った途端、楊氏は軽い目眩を感じた。堪らなくなって人混みに背を向けた。橋の懸かる水路には多くの船の姿が見られた。堤に植えられた楊柳が黄金色の夕日の中をそよ風に吹かれていた。
「死んでしまおうか」
 楊氏はぽつりと呟いた。そして欄干に手をかけてそのまま河に向かって倒れ込もうとしたその時、後ろから誰かに着物の裾を掴まれた。
「嬢や、どうして死のうとするのかい?」
 振り返ると白髪頭を引っ詰めにした老婆が立っていた。
「私のことを覚えてるかね?」
 そう言われても楊氏には見覚えがなかった。そこで首を横に振ると、
「だろうね。小さい時に会ったきりだから。うちがあまり豊かでなかったから、迷惑をかけちゃいけないと思って兄さん、つまりあんたの父様の所に顔を出さないようにしてたからね」
 そう言って、さも懐かしそうに楊氏の髪を撫でた。
「父様のってことは私の叔母様なんですか」
 楊氏は身内の顔を思い出そうとしたが、思い出せなかった。老婆は笑って言った。
「まあ、うちは落ちぶれちゃってるから、身内の数には入れてもらってなかったけどね。あんたがご主人に訴えられたって聞いてね、お役所に足を運んでは様子を聞いてたんだよ。さっき行ったら、あんたが離縁されたって言うじゃないか、驚いたよ。それにしても何で死のうなんて馬鹿なことを考えたのさ」
「帰る所がないんですもの。身内なんていないし」
「なら、うちに来ればいいじゃない」
 老婆の申し出に楊氏はしばらく考え込んだ。この老婆が本当に自分の叔母かどうかわからなかった。しかし、いずれにせよ自分には行き場がないのである。今より悪いことになることはないだろう。楊氏は考えを決めると老婆の好意に甘えることにした。 老婆は楊氏を自宅に案内した。老婆の家には特別な家財道具はなかったが、ぼかし柄の帳が掛けられ、肘掛椅子や卓がきちんと置かれていた。
「嬢や、今日からここがあんたの家だよ」
 楊氏はようやく落ち着くことができた。
 数日後のことである。楊氏と老婆が食事を済ませた時、外で男の呼ぶ声がした。
「婆さん、あんたに頼んだ例の品の代金、まだ貰ってないんだがね」
 それを聞いた老婆は慌てて男を中に招じ入れた。老婆に招かれて入ってきたのは、眉が濃くて、大きな目、上を向いた鼻に大きな口をした大柄で身なりの立派な男であった。楊氏は奥の部屋に身を隠していたのだが、男の様子はよく見えた。ふと、僧児が言っていた手紙の主の特徴と重なって見えた。
 男は老婆に勧められるままに椅子にどっかりと腰を下ろすと、詰るような口調で言った。
「あんたに頼んだ例の三百両の品、もう一ヵ月になるのにどうして寄越してくれないんです?」
 老婆は愛想笑いを浮かべて、へつらうように答えた。
「いやさね、品物の方は先方にもう預けてあるんですけどさ、お金の方が用意できてないらしくてまだ貰ってないのさね。あっちが払ってくれたら、すぐにお前さんにお払いしますって」
「今まではすぐに払ってくれてたのになあ。時間が掛かりすぎますよ。ま、
とにかく金が入り次第、すぐに払って下さいよ」
 男はそう言い残すと、そそくさと帰って行った。老婆はすっかり困りきった顔で奥の部屋へ入ってきた。
「どうしようねえ…」
 老婆は楊氏の顔を見ながら、ため息をついた。
「叔母様、あの方はどなた?」
「あの人はね、蔡州(注:現在の河南省)の副知事だったお方だよ。洪さんというんだ。さっさと役人生活に見切りをつけて、今では宝石商さ。羽振りはいいんだよ。先日、あの人から誰かお得意になってくれるような人を紹介してくれって頼まれたんだ。で、心当たりがないこともなかったから、私が仲介して話を取りまとめたのさ。ところが、先方がまだあの人に代金を払ってくれなくてね。そこで、こちらにねじ込んで来たってわけさ。ま、代金の方は先方が払いさえすれば済むことなんだけど、もう一件の方はどうしようねえ…」
 老婆の思わせぶりな言い方に、楊氏は興味をひかれた。
「もう一件って?」
「あの人ね、いい歳してまだ独り身なのさ。でね、誰かいい人を紹介してくれって頼まれてるのよ。その条件がね、とびきりの美人ときたもんだ。そんなに簡単に美人なんて見つかるもんじゃない。それで困ってるところなのさ」
 途方に暮れた様子で老婆はまたまた深くため息をついた。
「ああ、嬢やのような人があの人のお嫁さんになってくれれば、私の顔も立つというものなんだけどねえ」
 そう言って、ちらりと楊氏の方を見やった。
「ねえ、嬢や。あんたあの人の所に行く気はない?あんたなら、あの人も気に入ると思うのよ。折角、美人に生まれついたんだもの。これから一花も二花も咲かせなきゃ。前のご亭主に離縁されたからって、人生をはかなんじゃいけないね」
「そうねえ…」
 楊氏は老婆の話も悪くないと思った。

 

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