銘酒老龍口(三)


 

 洲は自分が寝食そっちのけで悩んでいた問題を、敖学生が笑い飛ばしたのでいささかムッときたが、何とか怒りを抑えた。敖学生は仙洲が気分を害したのを見ると、笑うのをやめて言った。
「仙洲兄、失礼いたしました。いえ、実は私、少々風水の心得があるのです。もしかしたらお力添えできるかもしれません。こんな些細なことで仙洲兄にご恩返しができると思って、つい笑ってしまいました。よい水の出る井戸を見つけて差し上げましょう。そうすれば、商売のご繁盛、間違いありませんよ」
 藁(わら)にもすがりたい心持ちの仙洲は敖学生の言葉に喜んだ。早速、敖学生の腕を取ると、例の井戸に連れて行った。呉秀才もそれに続いた。
 敖学生は酒屋の門口で立ち止まると、仙洲にたずねた。
「屋号は何と言うのです?」
「屋号はまだつけてないのです。お手数ですが、賢弟につけていただけないでしょうか?」
 敖学生は頷(うなず)いて、遠くの山々に目をやった。
「そうですね…、ここからは東に天柱山が望めますね。あの山は遠く、長白山に連なるんですよ。ご存知でしょうが、長白山で大清皇帝の先祖は生まれたと言われております。ここは一つうんとめでたい名前をつけましょう。そうだ、万隆泉(ワンロンチュワン)はどうかしら?」
「“万物の興隆する泉”か、ううむ、素晴らしい!」
 そう唸ったのは呉秀才であった。
「そうですよ、“生意興隆”(注:商売繁盛の意)ですよ」
 敖学生が仙洲に向かって片目をつぶって見せた。呉秀才は腕組みしてしきりに頷いていたが、やがて大きく一つ頷いた。
「よし、思いついたぞ。商標は“老龍口”(ラオロンコウ)でどうじゃ?ここは盛京城の東辺門に面しておる。すなわち東門を守るのは龍じゃから、龍の門ということで老龍口じゃ」
 仙洲は、屋号と商標を繰り返し呟いていた。
「万隆泉…老龍口、…万隆泉、老龍口…。いいぞ、いいぞ」
 三人は話しながら酒屋の中をぐるりと歩いた。そして、気が付くと例の井戸の前に来ていた。井戸を目にすると、さっきまで盛り上がっていた仙洲の気持ちは一挙に落ち込んだ。どんなに立派な屋号や商標をつけても、この井戸の水が苦い限り、酒は売れないのである。ちょうど、杜氏や従業員が風水師が井戸を何とかするらしいという話を聞きつけて集まってきた。
 敖学生は井戸の周りを一巡りすると、ニッコリ笑って言った。
「なあんだ、この井戸の水は大したものですよ。苦いなんてわけがあるはずないじゃないですか?」
 集まった人々はドッと笑った。誰かが言った。
「大した風水先生だなあ」
 敖学生は誰も自分の言葉を信じないのを見て腹を立てた。
「君達は私の言うことを信じないのかい?よし、待っていたまえ。下りて行って、水を汲んできてやろう」
 そう言うやいなや、井戸の中に身を躍らせた。思わぬ展開に一同びっくりして、声も出なければ手も出ない。そのまま凍りついたように立ちつくしていた。すると、

 ゴゴッ…ゴゴ…。

 井戸の底から何か湧き起こるような音が響いた。まるで遠くで轟(とどろ)く雷鳴のようである。皆が固唾(かたず)を飲んで井戸を見守っていると音はだんだん大きくなる。そして、突如、巨大な水柱が噴き上がったのである。これには一同、腰を抜かすほどたまげてしまった。噴き上がった水柱はそのまま中空で白雲と化した。その白雲の上に端座するのは敖学生であった。白雲の上から敖学生は仙洲に向かってニッコリ微笑みかけると、そのまま西北に向かってゆっくりと飛び去った。その時、空から絹の帯が一本、ヒラヒラと舞い落ちた。仙洲が拾い上げてみると、そこには詩が一首記されていた。

  東海三太子、遼河小龍王  東海の三太子、遼河(りょうが)の小龍王
  感恩脱劫難、報以万隆泉  災難を救いし恩に、万隆泉で報いる

 不思議なことにあれほど苦かった井戸の水は、甘く芳醇なものに変わっていた。その上、どんなに汲んでも水が涸(か)れるということがなかった。この水で醸した酒はまことに美味で、またたく間に老龍口の評判は高まり、今日に至るのである。

 万隆泉の水脈について不思議な話が伝えられている。ある夏の日、酒屋の手代が出張で遠出をし、盛京に戻ってくる途中、遼河のほとりを通りかかった。ふと河に目をやると、天秤棒が一本流れてきたので、手代はそれを拾って持ち帰った。手代の妻は天秤棒を見るなり言った。
「それ、うちの天秤棒じゃないの。一昨日(おととい)、お店の井戸で水を汲んでる時にうっかりして落としたんだけど、あんた、どうして持ってるの?」
 このことがあってから、人々はこの井戸が遠く遼河につながっていると言うようになった。そういうわけでいつしか、井戸を龍泉水(りゅうせんすい)と呼ぶようになったのである。

(『瀋陽伝説故事選』より)

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