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離魂(後編)


 

 れから五年の月日が流れた。王宙と倩娘(せんじょう)の二人は蜀(注:現在の四川省)に居を定め、二人の子供にも恵まれた。夫婦仲はよく、倩娘は相変わらず美しかった。ただ、倩娘がため息をつく回数が増えた。時にはそっと涙を拭いていることもあった。
「ねえ、親子四人、こうして楽しく暮らしているのに何が悲しくて泣いているの?」
 王宙は思い切って訊ねた。倩娘はそれに答えて、
「あなた恋しさのあまり家を飛び出して参りましたが、あれから五年、父や母がどうしているかと思うともうたまらなくて…。きっと心配していることでしょう。まさか、このように幸せに暮らしているとは思ってもいないでしょう。孫の顔も見せてやれないなんて…」
「僕も今では人の親になって、君のご両親の気持ちが少しは分かるようになったよ。そうだ、これから衡州(こうしゅう)へ戻ろう。戻って君のご両親に不孝をお詫びしようよ」
 王宙と倩娘は旅支度を整えると、二人の子供を連れて船で衡州へと向かった。衡州に着くと、張鎰(ちょういつ)達を驚かせないように倩娘と二人の子供を船に残して、まずは王宙だけが張鎰の家へ出向いた。
 丁重に客間に通され王宙はいささか気抜けがした。倩娘をさらったかどで捕えられるかもしれないと覚悟していたからである。しばらく待つうちに張鎰が奥から出てきた。久しぶりに会う伯父は老け込んでいた。これも自分の不孝のせい、と王宙は平伏して詫びた。
「帰って来て早々何を言っているのだ?」
 と張鎰は不思議そうに訊ねた。
「倩娘ならばお前が出て行ったあの晩から病に臥せって、もう五年になる。誰とも口を利かなくなってのぅ…。おかげで縁談も無しになった。日がな一日鏡を抱き締めて片時も放さんのだ。あの鏡はお前があの娘に贈ってくれたものらしいな。あの娘があんなにもお前のことを慕っていたとは知らなかったわい」
「伯父上こそ、何をおっしゃっているのですか?それほど私のことを憤っていらっしゃるのですか?倩娘は子供と共に船におります」
「何?船の中だと?どういうことだ…?」
 そこで、下僕に船へ様子を見に行かせた。下僕が船室に入るとそこには病で臥せっているはずの倩娘が坐っている。可愛らしい子供も二人一緒である。晴れやかな様子で
「お父様はお元気?」
 と声をかけてきた。下僕は急いで戻ると張鎰にこの事を告げた。一同不思議に思っていると、今度は奥から張鎰の妻が走り出てきた。
「倩娘が、倩娘が…」
「どうした?容体に変化でも?」
 部屋へ行ってみると、先ほどまで臥せっていたはずの倩娘が鏡に向かっているではないか。声をかけても返事をしないが、いかにも嬉しそうな様子で化粧をしている。やがて着物を着替えると、鏡を胸に抱き締めて軽やかな足取りで客間へ出て行った。どう見ても病人の足取りではない。丁度、客間には船に残っていた倩娘が子供を連れて来たところだった。
 一同の見守る中、二人の倩娘は向かい合って立った。顔かたち、髪型、着ている物、何から何まで寸分も違わない。病に臥せっていた倩娘が右手を差し上げた。船にいた倩娘も左手を上げた。そのまま二人は歩み寄った。指先と指先が触れ合い、掌と掌が重なり、脚が脚と出逢った。互いが互いを掻き抱くかのように見えた。二人の胸が重なった時、片方の倩娘の胸元から鏡が滑り落ちたかと思うと、まるで鏡が合わさるように着物の柄に至るまでぴったりと一つに重なってしまった。今や倩娘は一人となり、その足元には鏡が割れて落ちていたのである。

 その後、怪異は二度と起こらず、王宙と倩娘の夫婦は天寿を全うしたのであった。

(唐『離魂記』)

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