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過去を消した女

 

―――― 後唐 荘宗皇后劉玉娘(891〜926) ――――

 

玉娘は魏州成安(注:現在の河北省)に生まれた。父の劉山人は山中で薬草採りを生業とする貧しい農民であった。母を早くに亡くし、父娘で身を寄せ合うように暮らしていた。
 当時、唐朝は安禄山(あんろくざん)の乱以後、とみに弱体化が進んでいた。自力で乱を平定できず、異民族集団を招致して鎮定させたのはよいが、それが各地に軍閥として割拠するようになっていたのである。また、安禄山の残党も軍閥と化していた。唐の威光はすでに地方に及ばなくなり、形骸化していた。この形だけ残った王権にとどめをさしたのが、塩商人黄巣(こうそう)の乱であった。
 もはや唐王朝にはなす術がなかった。この平定に活躍したのが、後梁の太祖朱全忠(しゅぜんちゅう)と後唐の太祖李克用(りこくよう)である。後に朱全忠は唐を滅ぼして自ら後梁を開き、中国は五代の混乱期に突入する。この時代が五代と呼ばれるのは華北に五つの王朝、後梁・後唐・後晋・後漢・後周が交替したからである。一方、華南地域には十の王国が先後して樹立された。
 玉娘が生まれたのは唐が断末魔の悲鳴を上げていた時期であった。

 黄巣の乱をともに平定した朱全忠と李克用――唐朝より晋王に封ぜられていた――はすでに決裂し、互いにしのぎを削っていた。唐の乾寧三年(896)、李克用が魏州を攻め取った時、まだ六歳だった玉娘は掠奪されて晋王の宮中に入れられた。そして、李克用の夫人曹氏の侍女となった。曹氏がこれに笙(しょう)や歌舞を仕込んだところ、すこぶるのみ込みが早い。年頃になると、玉娘は素晴らしい美少女に成長した。また歌にも長けていた。
 李克用と朱全忠の闘争は906年に朱全忠が唐朝を滅ぼすと、ますます激化した。李克用は黄河をはさんで血みどろの決戦を繰り返す中、決着のつかないまま死に、遺恨(いこん)はそのまま息子の李存勗(りそんきょく)に引き継がれた。
 李存勗が晋王の跡目を継いで間もないある日、太后となった曹氏が侍女達を連れて息子のもとを訪れた。迎えた李存勗は酒宴を設けて太后の長寿を願った。元々音楽好きの李存勗は自ら立ち上がって舞って見せた。これに曹氏は大いに喜び、返礼に玉娘に命じて笙を吹かせた。李存勗は花のように艶やかな玉娘の姿に心を奪われた。そのことに気付いた曹氏は玉娘を李存勗に与えた。
 ところで、李存勗にはすでに韓氏という正妃がいた。李存勗の晋王承襲にともない、衛国夫人に封ぜられていた。また次妃に伊氏が控えていた。さらに後梁の夾(きょう)城を破り、勇将符道昭(ふどうしょう)を殺した際にその妻侯氏を奪ったのだが、侯氏は「夾寨夫人(きょうさいふじん)」と呼ばれ、その寵愛は後宮で並ぶものがないほどであった。玉娘は李存勗の後宮に入ったといっても、その地位は正妃韓氏の侍女にすぎなかった。
 しかし、玉娘は強運の星に恵まれていたようで、王子を産む。李継岌(りけいきゅう)である。李存勗にとって初めての子であった上に、李存勗によく似ていたことから、その喜びようは並々ならぬものがあった。玉娘への寵愛は日増しに深まっていった。

 923年に李存勗は後梁を滅ぼし、洛陽を都として後唐王朝を開いた。帝位につくにあたり、皇后冊立の問題が生じた。
 この時、李存勗には韓氏、伊氏、劉玉娘の三人の夫人がいた。本来なら正妃である韓氏が皇后となるべきであったが、子をなしたのは玉娘だけであった。そのため、李存勗は玉娘を皇后とする所存でいたが、一部の大臣にはその貧賤な出身に難色を示すものもあった。また、この頃すでに玉娘は蓄財に励むようになっており、それが皇后にふさわしくないと思うものもいた。しかし、李存勗の決意が固いのを見てとった宰相豆盧革(とうろかく)と枢密使郭崇韜(かくすうとう)は、劉玉娘を皇后に立てるよう上奏した。
 この時、思わぬ事件が持ち上がった。何と玉娘の父親である劉山人が噂を聞きつけて娘に会いに来たのである。李存勗は掠奪に携わった袁建豐(えんけんほう)を召し出し、玉娘を掠めた時の情況をただした。袁建豐が答えるには、
「成安北部の村で見つけました。白い髭の父親らしい男が懸命にかばっていたのを憶えておりまする」
 とのこと。劉山人と対面させてみると、その時の老人に相違ないと答える。劉山人はてっきり死んだと思っていた娘が皇后に立てられると聞いて、顔をほころばせていた。
 当の玉娘の方はといえば、思いもかけぬ実父の出現を喜ぶどころではなかった。彼女は自分がしがない薬採りの娘だとわかれば、折角決まった皇后冊立に影響を及ぼすのではないかと心配した。李存勗に真偽を問われた玉娘は眉をつり上げてこう言った。
「父は私がこちらに連れてこられる前に乱兵に殺されました。遺骸に取りすがって泣いたのを憶えております。どこの田舎爺が厚かましくもそんなウソをついているのでしょう」
 そして、実の父を宮城の門に引き出してむち打たせ、放逐したのであった。娘から思わぬ仕打ちを受けた哀れな老人がその後どうなったのか、史書には記載されていない。
 玉娘は皇后の地位のために、実の父をも斬り捨てた。一部の不平を買いながらも薬採りの娘、劉玉娘はこうして後唐の皇后となった。同光二年(924)四月のことである。

 李存勗は父から受け継いだ宿願を果たして帝位につくと、急に気が緩み、遊興に耽るようになった。とりわけ芝居を好み、自ら「李天下」という芸名をつけ、扮装して舞台に立つこともあった。
 ある時などは薬箱を背負い、籠を提げた老人に扮し、同じく農村の子供の姿をさせた継岌を連れて宮中を歩き回った。劉山人の一件を再現したのである。玉娘の寝室に入ったところ、ちょうど昼寝の最中だった。目覚めた玉娘は大いに恥じ入り、怒りの矛先を我が子継岌に向け、さんざんにむち打った。父親の悪ふざけのとばっちりを受けた継岌こそいい面の皮であった。
 皇帝は遊興に耽り、皇后は蓄財に励んだ。玉娘は皇后という地位を利用して各地に人を派遣して手広く商売をした。市場には皇后直販の商品が並んだ。諸侯からの貢物があれば必ず半分、しかもよい物を自分のものにした。自分のものはがめつく貯め込んだが、李存勗のものは気前よく配らせた。こんなこともあった。
 李存勗に新たな寵姫ができた。非常に美貌な上に子をなした。玉娘は自分の地位が脅かされることを恐れた。李存勗が酒宴を催したのだが、その席に大臣の元行欽(げんこうきん)がいた。元行欽は妻を亡くしたばかりで、李存勗が戯れてこう言った。
「新しいのをもらう気はないのか?その気なら、仲立ちをしてやろう」
 すると、すかさず玉娘がくだんの寵姫を指して言った。
「行欽殿のことをそれほど心配なさるのなら、なぜこちらを遣わされませぬ?」
 李存勗はしまった、と思ったが、仕方なく寵姫を下げ渡すことに同意した。こうして玉娘は厄介払いができた。
 これだけやり手の玉娘も仏教には深く帰依していた。貧賤の身から一国の皇后にまでのし上がれたのは、仏の力によるものだと考えた。玉娘は一切の無駄な出費を惜しんだが、僧侶や尼僧への喜捨(きしゃ)は別であった。

 同光三年(925)の秋には大水が出て、租税が滞った。翌年の三月には客星が天庫を侵し、流星が見られた。占星術師の言うには、
「御前に兵難がありましょう。宮中の庫を開いて、兵士をねぎらわれますよう。さすれば変事を防げましょう」
 とのこと。事実、連年の出兵で莫大な戦費がかさみ、国庫はほとんど底をついていた。兵士の給与も滞りがちで、不満を募らせていた。豆盧革が宮中の庫を開いて、軍費に充てるよう上奏した。李存勗は快諾したのだが、玉娘が頑として首をたてに振らない。
「私達夫婦が天下を得られてのは確かに武功のおかげでもありましょう。しかし、そもそも天命があったからこそのことです。天命があるからには、他人に私達をどうこうすることはできません」
 そして、荘宗の前に化粧道具である銀の盆を二枚と、三人の幼い皇子を突き出して、
「今までに諸侯から貢納されたものは、あちこちに配ってなくなってしまいました。宮中の残っているのはこれだけですわ。どうぞ、兵士達にくれてやって下さいませ」
 と言い放った。これには豆盧革も退散するしかなかった。ちなみに三人の皇子が玉娘が腹を痛めた子かどうかは不明である。
 同年、指揮使趙在礼が魏州で兵を挙げた。討伐軍を出そうにも戦費がない。ようやくことの重大さを理解した玉娘がしぶしぶながら宮中の庫を開くことに同意した。しかし、これに対して、
「俺達の女房子供は飢え死にしちまったんだ。今さらこんなものもらってどうなる!」
 兵士達の怒号がやまなかったという。

 皮肉なことに討伐に向かった李嗣源(りしげん)は反乱軍と結び、洛陽目指して南下してきた。先代の李克用は部下の中に有能な者を見つけると養子に迎えていたが、李嗣源もその一人であった。
 李存勗は反乱軍を迎え撃つべく二万五千の兵を率いて自ら出馬した。しかし、戦意のない軍隊は戦わずして崩壊し、出発して間もなく洛陽に退却せざるを得なかった。宮中に逃げ込んだ李存勗を待ち受けていたのは部下によるクーデターであった。
 李存勗は流れ矢に当って落命し、変事に気付いた玉娘は持てる限りの金銀財宝をまとめて馬に飛び乗ると、李存勗の弟の李存渥(りそんあく)と共に逃亡した。太原に逃げ込み、落髪して尼になるつもりであった。この逃避行の中、兄嫁と義弟は一線を越えてしまう。
 926年四月、玉娘は帝位についた李嗣源から死を賜った。享年三十六歳。
 936年、後唐は後晋の石敬塘に滅ぼされ、940年、後晋によって劉玉娘に「神閔敬皇后(しんびんけいこうごう)」の諡(おくりな)が追贈された。