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愛の妙薬(前編)


 

 に洪大業という人がいた。妻の朱氏は評判の美人で二人の仲睦まじさも評判になるほどであった。しかし、洪がひょんなことから小間使いの宝帯に手を付けてしまい、妾に納めてしまった。この宝帯、たいした器量ではないのに、洪の可愛がりようが並大抵なものでなかったのだから、さあ大変。朱氏は心穏やかでない。熱愛変じて冷戦である。洪はあからさまに宝帯を寵愛するようなことは控えたが、夫婦仲は冷え切る一方であった。
 夫婦の冷戦状態が続く最中に引っ越したのだが、新居は狄(てき)という呉服商の隣であった。引っ越して間もなく、狄の妻の恒娘(こうじょう)が挨拶に来た。恒娘は年の頃は三十余り、器量は十人並みだが、あか抜けた雰囲気であった。朱氏が、
「本来はこちらから伺うのが筋ですのに、つい忙しさに取り紛らせてしまって…。お恥ずかしい限りですわ」
 恐縮して詫びると、恒娘はあっさり言った。
「いいの、いいの。これから長いお付き合いになるんですもの、こんなことで一々恐縮していたら身が持ちませんことよ」
 そのさっぱりとした物言いを朱氏はすっかり気に入ってしまった。
 翌日、朱氏が答礼に狄の家を訪ねると、狄にも妾がいるのを知った。年は二十余り、艶麗なことこの上ない。恒娘さんもさぞかし心穏やかでないだろう、と朱氏は同情を禁じ得なかった。
 さて、引っ越しから半年余りが過ぎた。洪と朱氏の冷戦はまだ続いていた。しかし、朱氏は狄の家での夫婦喧嘩の声を一度も聞いたことなかった。しばしば往来する内に、美人の妾はお飾りに過ぎず、実際、狄は恒娘一人を寵愛していることを知った。
 ある日、思い切って朱氏は恒娘に訊ねた。
「私ね、今まで殿方がお妾さんを可愛がるのは、お妾さんという名前に魅力があるからだと思っていましたの。だから、私、奥様という名前を返上してお妾さんって呼ばれたかったくらいですのよ。でも、お宅を拝見していてそうではないって気が付きました。奥様には何か秘訣がおありなのなしら?もしおありなら、一つ教えて頂きたいものですわ」
「あら、あなたったらご自分で努力もなさらないのに、それを旦那様のせいになさる気?そりゃあね、朝晩やいのやいの言われたら、どんな殿方だって逃げ出してしまうわ。お妾さんに心が向くのも当然よ。だから、その男心を逆手にとってやるのよ」
「逆手にとるって?」
「まず、旦那様があなたにすり寄って来ても、うっちゃっときなさいな。部屋から締めだしてやるのよ。どんなにおためごかしを言ってきてもダメ。これを一ヶ月やってごらんなさいな、きっと効果はあるはずよ」
 朱氏は帰宅すると、早速宝帯を着飾らせて洪の寝室へ送り込んだ。洪の食事時にも必ず宝帯にお相伴をさせるようにした。洪がたまに朱氏と寝室を共にしようとすると、朱氏は努めて拒み、代わりに宝帯に相手をさせるのであった。周囲は皆、朱氏のことをなんてできた奥方だ、と誉めちぎった。ついこの間まで、あんなに嫉妬深い女房を持てば男も浮気の一つや二つしたくなるのは当然だ、などと陰口を利いていた人々が、である。

 一ヶ月後、朱氏は恒娘を訪ねた。恒娘はニッコリ笑って言った。
「奥様、事は順調に運んでいるみたいね。ウワサはこちらの耳にも入っていましてよ。第一段階はひとまず終了。第二段階に移りましょう。これはちょっと難しいの。家に戻ったら、まずお化粧を全部お落としになって。…あらあら、そんな顔をなさらないで、これが肝心なの。着物も粗末なものに変えて、靴は破れたものがいいわ。召し使いに混じって働くのよ。一ヶ月後、またいらっしゃい。そうそう、向こう一ヶ月間お化粧なんてしたらダメよ」
 朱氏は言われたままに化粧を落とし、つぎのあたった着物を着て、髪も梳かずにわざとむさ苦しくして下女に混じって糸紡ぎに精を出した。洪は朱氏を気の毒に思い、妾の宝帯にも手伝いをさせようとするのだったが、朱氏はいつも叱って追い返すのであった。
 そして一月が経った。訪ねて来た朱氏に恒娘が言った。
「あなたはほんとに教え甲斐のあるお弟子さんね。明後日は三月三日の上巳節(じょうしせつ)だから、ご招待するわ。お庭遊びでもしましょう。ぼろはかなぐり捨てて、おめかしして、朝早くにいらっしゃい」
 朱氏は約束の三日になると、早朝から念入りに化粧をし、仕立て下ろしの着物に手を通し、全て恒娘の言う通りにした。すっかり身仕度を整えて恒娘の所を訪ねた。
 恒娘はためつすがめつ朱氏の姿を見ると、
「結構よ」
 と言って、朱氏の髪を今流行の髪型に結い上げてくれた。上着の袖の型が古いと言っては、ほどいて縫い直し、靴の型がまずいと言っては箪笥(たんす)から新しい靴を出してくれたりした。別れ際に、酒を飲みながらこう言い含めた。
「さあ、これからが第三段階よ。お帰りになって旦那様にご挨拶を済ませたら、さっさとご自分のお部屋に戻ること。その時、戸を締め切ってね。旦那様がいらしても無視するの。戸を叩いても聞こえない振りをして。そうね、三回来てお呼びになったら、お入れになってもいいわね。でもね、あなたの方から何かしてはダメよ。旦那様が接吻しようとなさってもお断りなさい。足なんて触らせちゃあダメ。半月経ったら、またいらっしゃい」

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