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業病(八)


 

 老人は村を見下ろす峠まで来ると、麓を指さしながら言った。
「ご覧、南向きに門構えのある家が見えるだろう。石垣のある家じゃよ。あれが陳家じゃ。さあ、ここからはお前さん一人で行くのじゃ。ワシはもう行かねばならぬからのう。陳家の父子に会ったら、海客がよろしく言うておったと伝えて下され」
 そして二、三歩も踏み出したかと思うと、黄老人の姿はかき消したように見えなくなった。この時初めて麗玉は黄老人がこの世の人でなかったことを知った。
 一人になった麗玉は黄老人の指し示した家を目指して峠を下りて行った。
 陳家は村内で一際立派な邸であった。邸の一部は酒屋に改装してあり、高く掲げられた青い幟(のぼり)がはためいていた。酒屋の炉端には一人の老人が腰掛けていたが、面差しが綺とよく似通っていた。綺の父親だろうと見当をつけた麗玉は店の前に立ち止まると、深々とお辞儀をして一曲歌い始めた。歌が終わるのを待って、老人は巾着から銭を一枚取り出して投げて寄越した。麗玉はそれに見向きもせず、もう一曲歌った。終わると老人はまたもや銭を投げた。すると、麗玉はその場に泣き崩れて訴えた。
「一枚、二枚の銭で綺様が広東で残した借りをどうして償うことができましょうか」
 麻瘋病みの乞食女が自分の息子の名前を口にしたので陳老人は驚いた。
「綺は確かにワシの息子だ。お前さん、一体どういう因縁があるのかね?」
 麗玉は問われるままに広東での経緯をつぶさに語った。老人は聞き終わると、
「お前さんの話はよくわかった。お前さんを疑ってかかるわけではないが、やはり息子にも事情を訊かねばならぬ。しかし、生憎、あれは秋試(注:科挙試験の選抜試験である郷試のこと)を受けに金陵(注:現在の南京)へ行っていて、今はおらぬのだ。数日中には戻るはずだから、そうすればお前さんの話の真偽を確かめることもできようというものだ」
 麗玉はこれを聞いて安心した。自分の話など頭から信じてもらえないかもしれないという危惧を抱いていたからである。舅である陳老人に改めて嫁として叩頭(こうとう)した。老人は麗玉を村内の尼寺に送り、村の女に身の回りの世話をさせようとした。しかし、女達は麗玉が麻瘋の病に罹っていると知ると、恐ろしがって仕事を受けようとしない。幸い、麗玉の身の上を憐れんだ尼僧が親身に世話を焼いてくれたので、当面の不便はなかった。

 一月余り後、綺が金陵から戻ってきた。老人が麗玉のことを尋ねると、驚きのあまり返す言葉もなく、ただ涙を落とすだけであった。老人はその涙が自分の問いに対する答えと受け取り、こう言った。
「見捨ててはならぬ。それくらいのゆとりはうちにもある。もしそなたが他の女を娶ることがあろうとも、あの娘御の面倒は一生見てやらねばならぬぞ」
 綺は父の提言に感謝した。そして、矢も盾もたまらず、尼寺に飛んで行った。そこにいたのは病で無残な姿をした女乞食であった。しかし、綺にはすぐにそれが麗玉だとわかった。白く透き通るようだった肌は病で崩れたところが盛り上がり、手の指はすっかり曲がってしまっていた。しかし、長い睫毛に縁取られた眼だけは変わっていなかった。麗玉は間接がこわばった不自由な手で綺の着物の裾を握りしめて泣いた。
「私、あなたに一目会おうなどと大それたことは考えておりませんでした。ただ、ただ、お宅のお墓に葬っていただきたくて遙々尋ねてまいりました。淮南にたどり着けなくても、少しでも近いところで死にたい、そう思って広東を出たのです」
 綺は女の一途な心根に涙を流さずにはいられなかった。長旅の疲れを少しでもねぎらってやろうと、麗玉の背をさすった。
「そんな体で、どうやってここまで来られたの?」
 麗玉が黄老人のことを話すと、
「それは母方の叔父だよ。話したことがあるだろう?僕が尋ねる前に亡くなってしまったんだ。ああ、叔父上の魂が君を助けてくれたのか」
 そして、しぶる麗玉を連れて家に戻ると、酒倉に並べられた酒甕の間に布団を敷いて寝かせた。女中達に世話をさせようと思ったのだが、皆、病を恐れて酒蔵に近寄ろうとしない。ただ、甘蕉という年若くて健康な女中見習いだけが、身の回りの世話を買って出た。食事や薬の世話は綺が自ら行い、寝具一式を携えて麗玉の側で寝泊まりするようになった。

 

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