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操(一)


 

 漢の孔融(こうゆう、注:孔子二十世の孫)は指名手配中の張倹(ちょうけん)を匿った。張倹は時の権勢家を告発したため、その怨みを買い、指名手配を受けたのである。張倹は逃亡を重ね、かねてから懇意にしていた孔褒(こうほう)の家に逃げ込んだ。この時、あいにく孔褒は不在で十六歳になる弟の孔融が応対に出た。この孔融の独断で張倹を匿うことにしたのである。後にことが発覚して、孔家は厳しい追及を受けることとなった。取調べの際、孔融は、
「張倹を匿ったのは私の独断です」
 と一人で罪を被ろうとする。兄の孔褒は、
「張倹は私を頼って逃げてきたのです。弟とはそもそも面識がございません。ゆえに罪は私にあります」
 と主張する。兄弟の母親は、
「主人亡き後、孔家の家事をとりしきっているのは私です。他人を泊める泊めないを決めるのは私でございます。どうぞ、私を存分にご処分下さい」
 と言い、一家三人で罪を被って死ぬのを争った。結局、罪は孔褒にあると判決が下ったが、当時、本人は不在だったのだから、と死一等を減ぜられた。孔家の節義を重んじる態度は、世の賞賛を受けたのであった。
 時代が下ると、拝金主義、利己主義が横行し、財を貪り、権勢におもねる輩は節義などどこ吹く風。親子であろうが、兄弟であろうが、平気で出し抜く。利益を得るのに狂奔する昨今、節義を重んじる女性の美談をさっぱり聞かなくなった。中には権力に抵抗して押しつぶされたものも少ないのかもしれない。まことに節義を重んじる気風は廃れてほしくないものである。
 以前、こんな話を聞いた。
 ある未亡人が夫の死後も再婚せず、いつも亡夫の肖像画を枕辺に置き、朝に夕に眺めていた。世間では貞女の鑑ともてはやしていたのだが、未亡人の本心を見抜いた男があった。未亡人が恋々と執着しているのは夫本人ではなく、夫の容貌だ、もしも亡夫にまさる美貌の持ち主が現れたら、心変わりをするだろう。そう男は看破した。
 この男には寵愛の若衆がいたのだが、これが絶世の美青年。早速、若衆の肖像画を描かせると、出入りの老婆に持たせて未亡人のもとに遣わした。その肖像画を見た途端、未亡人の亡夫への恋慕の情は吹き飛んだ。未亡人は亡夫の遺産を持参金に再婚を決意したのである。
 早速、未亡人のもとに若衆が送り込まれ、そのまま三日間を過ごした。あれほど堅かった未亡人の操は易々と破られてしまった。
 いざ、二度目の婚礼という時に現れた新郎は若衆ではなく髭面の中年男であった。若衆は愛人のために替え玉となったのである。未亡人はこの男に嫁いだのだが、先夫の家族はこれを不満として財産横領と姦通の罪で訴訟を起こした。すると、男は娶ったばかりの妻を有力者に嫁がせてしまった。先夫の家族も有力者相手となると、係争ははばかられてやむなく訴訟を取り下げ、男は厄介ごとから免れた。
 未亡人は結局、四人の男と関係を持つこととなった。訴訟から免れるために娶ったばかりの妻を他人に譲る男も男だが、平気で男を渡り歩いた未亡人も未亡人である。
 また、呉江に一人の未亡人がいた。若くして夫に先立たれたのだが、相続した莫大な遺産で裕福に暮らしていた。叔父にあたる人が更に欲を出して、別の富豪から莫大な結納金を取り、この未亡人を嫁がせようとした。未亡人は県に訴え出たのだが、県ではとりあってくれない。進退窮まったこの未亡人は喉を掻き切って自尽した。
 また、楚の才媛は夫の代わりに文芸サロンを主催していた。このサロンのメンバーである一人の貴公子がこの才媛に惚れ込み、夫を毒殺してしまった。その後、葬儀だ、何だ、と貴公子は残された才媛に援助を惜しまず、才媛の方でも貴公子に好意を抱くようになっていた。夫の喪も明けた頃、貴公子から妾に、と所望された。才媛が首を縦に振らないでいると、己の権力をかさに着て脅迫した。こうなってみると、才媛も夫の死に疑問を抱いた。そして調べ進むうちに真相を知ってしまった。
「ああ、主人の死は私が招いたのだとは。しかも仇に仕えようとしていたなんて」
 そう言って自決した。節義を守るために死を選ぶとは、何と哀れなことか。このように命をかけて節義を守った女性のことを烈女と呼んで賞賛した。

 さて、浙江は衢州(くしゅう)府開化県(注:浙江省西部)城外に程翁という材木商が住んでいた。程翁の原籍は江西だったのだが、ここ衢州で材木を買い付けていたので、開化県に居を構えたのである。妻の呉氏との間に息子と娘がいた。息子の名は程式、娘の方は九月に生まれたので菊英と名付けた。
 程翁の人となりは実直で、約束を違えるようなことは決してしなかった。例えば人と巳の刻(注:午前十時)に待ち合わせをすれば、午の刻(注:正午)に遅らせるようなことはなかったし、百両と決めたら、一両たりとも欠けることはなかった。当たり前といえば当たり前のことかもしれないが、信義の廃れた最近では得がたいものであった。
 程翁は根っからの商人で金勘定には長けていたが、教養とは無縁であった。しかし、読書人には深い尊敬の念を抱いており、家には数多くの書画を蓄えていた。子供達の教育には熱意を傾け、幼いうちから家庭教師をつけて勉強させた。そのため、菊英は商家の娘には珍しく書も読めれば、文章を書くこともできた。大きくなってからは一通りの手芸を身に付け、刺繍、裁縫とできないものはなかった。その上、細い眉に白い歯並み、すらりと婀娜(あだ)な姿、おっとりとした挙措、性格は穏やかで、まさに佳人の筆頭、才媛の領袖ともいうべき素晴らしい娘に育った。程翁夫婦は常日頃からこう言っていた。
「この娘は俗人に嫁がせるまい」
 程翁はゆくゆくは程式には儒家の娘を娶ってやり、菊英は儒家に嫁がせようと考えたのである。

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