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操(七)


 

 の中で菊英は縊(くび)れ果てていた。しかし、その顔色はまるで生きているようで縊死(いし)者特有の見苦しさはいささかも見られなかった。これには下役も仰天し、知県に報告しにすっ飛んで行った。
「程菊英が出頭いたしました」
「すみやかに連れてまいれ」
 と知県。すると下役から、
「死んでおります」
 と答えが返ってきた。知県は合点がいかず、
「何だと?出頭した人間が死んいるとはどういうことだ?死んだ人間がどうやってここまで来られる?はっきり説明せぬか」
 とイライラしながら問い詰めた。下役が答えて言うには、
「轎に乗り込んでいた時には確かに生きておりましたが、轎から降りるよう命じたところ死んでいたのです」
 とのこと。知県にはさっぱり合点がいかない。
「その方ら、か弱い娘をおびえさせて気でも失わせたのではないのか?早く手当てしてやれ」
「それが自ら縊れ死んでおりまして、もう手当てのしようもない次第で…」
 その時、知県もようやく事情が飲み込めたようで、
「何ということだ!娘を死なせてしまったとは。早く程式を牢から出すのだ。そして娘の遺体を引き取らせよ」
 そう命じる一方で、督撫への報告書をしたためた。
 牢から出された程式は妹の変わり果てた姿を目にするや、胸を打って号泣した。
「ああ、妹よ、哀れな妹よ。お前がこれほど貞烈なのなら、オレはお前のために死んでも悔いはなかったぞ」
 役所の前の集まった人々はこの光景に涙を誘われた。中には日頃からお上のやり方に不満を抱いている輩もおり、それが、
「徐の野郎め、烈女を死なせやがった!」
 と群集をあおった。人々の非難は徐家に集中し、今にも登第を引きずり出して袋叩きにでもしそうな険悪な空気に包まれた。恐れをなした登第は役所の裏門からこっそりと逃げ出してしまった。群集の怒号は知県の耳にも届いたのだが、すっかりおびえてしまった知県は役所の奥深くに引きこもったままその騒ぎの収まるのを待った。
 慣習によると屋外で死者が出た場合、冷屍(れいし)と呼んで遺体を家に運び込むことは忌まれた。しかし、程式は、
「妹は操を守るために死をもいとわなかった。立派な烈女である。我が家門を辱めるものではない」
 と言って自宅に連れ帰った。母と兄嫁は菊英の遺体に取りすがって泣いた。ひとしきり泣いてから経帷子(きょうかたびら)に着替えさせようと帯を解いたのだが、菊英が身にまとった晴れ着と下着は全てしっかりと縫い合わされており、脱がせることができなかった。万一死に切れなくても、操を汚されることのないよう自ら縫い付けたのである。また、袖の中から一枚の紙切れが出てきた。それには、
「我が屍を張家へ送って、亡き父の遺志をまっとうして下さい」
 と書かれてあった。これには家人も再び涙を落とした。
 程式が張家へ使いの者をやって事情を説明したところ、張秀才父子はその義理堅さに感じ入り、菊英の遺体を引き取りに来た。
 国珍は菊英の柩(ひつぎ)の上に身を投げて痛哭した。彼は夫として喪に服した。実際、国珍は菊英とは婚約者の間柄ながら一度も顔を合わせたことがなかったのだが、その悲嘆ぶりは妻を失ったのと同じであった。日を選んで葬儀を執り行い、菊英の柩は張家の墓所に丁重に葬られた。
 後に国珍は秀才となって科挙試験の受験資格を得た。縁談を持ち込む者もあったのだが、国珍はすべて断った。これには父親の張秀才が嘆いた。
「ワシには子供はお前しかおらぬ。そのお前が妻も娶らず子もなさないでは張家の血筋は絶えてしまう。先祖の祭りをどうする気だ?」
 一年余りも説得されたあげく国珍は仕方なく婢女(はしため)を寝所に呼び入れた。一年後に男児が生まれると、二度とその婢女には触れなかった。
 後に国珍は科挙試験に合格して官位につき、地方長官を歴任した。彼は生涯妻も妾も持たなかった。稚児など論外であった。程式との義理の兄弟としての関係を重んじて往来を欠かさなかった。
 国珍はいつもこう言っていた。
「かつて婢女に子供を産ませたのは厳父の命を尊んでのこと。妻を娶らないのは程家への義理を欠きたくないからだ」
 国珍の書斎には操を守って自尽した程菊英の位牌が安置されており、それと相対して時を過ごした。このことを聞いて涙を落とさない者はなかったという。

 菊英の死は烈女として表彰されるべきものであった。しかし、開化県の人々は知県をはばかり、隠れて詩文を捧げて祭るにとどめ、公に碑を立てたり扁額を掲げようなことはしなかった。
 また、知県は督撫をはばかって、朝廷への菊英の烈女表彰の上申ができかねた。おまけに程家の父娘を死なせた後ろめたさから神経を病み、常に首に帯を結わえ付けた美女の幻が見えた。職務にも支障をきたすようになり、一年も経たない内に病気を理由に辞職して故郷に逃げ帰った。
 督撫はといえば、これも軍需物資の浪費を理由に弾劾された。王のご隠居様はいくばくかの金子を得たものの、その破廉恥な行動は人々から軽蔑され、残りの人生を孤独に過ごす羽目になった。徐家はその莫大な資産が逆にお上の疑惑を招き、ささいな罪状で家産は没収され、一家は乞食に落ちぶれて各地をさすらう身となった。
 菊英の死は朝廷から表彰されはしなかったが、程家に仇なした人々の末路の悲惨さからより一層強烈に人々の心に刻み付けられたのである。

(清『酔醒石』)

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