任氏(前編)


 

 の玄宗年間に韋崟(いぎん)という人がいた。母が王族の出身で若い頃から豪放磊落(らいらく)、酒好きで女好きでいわゆる侠気(おとこぎ)に富む気性であった。その従姉妹の婿に鄭六という者がいたが、この人も少年の時から武芸を習い、やはり酒と女が好きで、韋といたく気が合っていた。二人はいつも連れ立っては遊び歩く仲であったが、鄭の方は韋と違って貧しいため家を構えることができず、親類の家に寄食していた。

 天宝九年(750)六月のことである。韋と鄭はいつものように連れ立って出かけ、酒を飲もうということになった。すると鄭が、
「ちょっと失敬するよ、用を思い出した」
 と言い出した。
「どうしたんだ、飲みに行かないのか?」
「すまん、すまん、あとからすぐ行くよ」
「なら先に行ってるから絶対来いよ。例の店だ」
 そう言って二人は別れた。韋は乗っていた白馬を東に向け、鄭は驢馬に乗って南へ向かった。鄭はしばらく驢馬を進めて行くと、前方を三人の女が歩いているのが目に入った。何気なく追い抜きざまに横目をくれたのだが、真中を歩く白衣の女がとてつもなく美しい。鄭は思わず見入ってしまい、そのまま離れるには忍びなく、手綱を引いたり緩めて女達からつかず離れず、後になったり先になったりしながら、声をかけようかどうしようか逡巡(しゅんじゅん)していた。白衣の女も気になるらしくチラチラと時々流し目を送って来る。そこで思い切って声をかけてみた。
「あなたのような綺麗な方がなんでまた乗り物もなしに歩いているのですか?」
 すると白衣の女は鄭を見上げて笑いながら、
「だって、乗り物があっても誰も貸して下さろうっておっしゃらないんですもの。仕方がありませんわ」
 鄭は我ながらまずい質問をしたと思った。赤面して続けた。
「こんな粗末な乗り物で美人のおみ足の代わりになるかはわかりませんが、よろしかったらお使い下さい。私は歩いてお供ができれば十分です」
 そして、鄭と白衣の女は顔を見合わせて大笑いをしたのであった。鄭は女を抱き上げて驢馬に乗せ、自身は後について一緒に歩き始めた。日がとっぷりと暮れた頃には、土塀を廻らした大きな邸の前まで来ていた。車寄せのある随分と厳めしい邸である。白衣の女は驢馬から下りると鄭に待っているように告げ、連れの女の内の一人と共に中に入っていった。鄭は待っている間、残った女に住所や姓名を細々ときかれた。一々答えてから、白衣の女のことを尋ねると、
「任(じん)家の二十番目のお嬢様です」
 とのことであった。しばらくすると中から侍女が出て来て、
「お待たせいたしました、どうぞおあがり下さい」
 と促した。鄭が驢馬を繋いで門内に入ると、三十過ぎの女が出迎えた。任氏の姉だと名乗った。案内された客間には灯りが晧々(こうこう)と灯され、酒食の用意ができていた。鄭が姉の勧めで何杯か盃を重ねるうちに、着替えを済ませた任氏が奥から出てきた。白衣の時よりも一層艶(あで)やかであった。
 任氏は姉に替わって鄭をもてなし、自らも盃を重ねた。次第に興に乗って歌ったり舞ったりし始めた。鄭は本当に夢を見ているのではないかと疑ったが、心ゆくまで任氏のもてなしを堪能した。夜もふけて休むことになったが、任氏が鄭の手を取って隣室へ連れて行った。そこは寝室になっていた。任氏は燈火を吹き消すと、鄭に身を寄せて来た。任氏の柔らかな肌、笑いさざめく姿、その夜の楽しさは温柔郷に遊んだかのようであった。
 空が白んでくると任氏は起き上がり、
「早くお帰りになって下さい。私たち姉妹は教坊(注:宮中の歌舞教習所)に勤めておりますの。朝早く出仕しなければならないのでゆっくりしていられませんわ」
 と鄭に帰宅を促した。鄭は名残惜しかったが、再会を約して帰ることにした。
 鄭は驢馬に乗って帰路についたが、早朝なのでまだ木戸が開いてなかった。木戸の脇の西域人の経営する軽食屋がもう開いていたので、店先の椅子に坐って木戸の開くのを待つことにした。店の主人に湯を持って来させ、世間話を始めた。
「この向こうに土塀の囲まれた邸があるだろう。あれは誰の邸だ?」
 すると主人は、
「あそこは荒れ放題の空き地でさぁ。邸なんぞありませんぜ」
 と言う。
「え?空き地だって?でも、俺はさっき行って来たばっかりなんだが…」
「そんな、ことあるはずありませんですだ。わしがここに店を構えた時からずっと空き地ですぜ」
 と怪訝な顔をしてしばらく考えていたが、
「ああ、合点が行きましたぜ、旦那。あそこには狐が一匹棲みついておりましてね、時々男を化かしては連れ込んで悪さをするんでさぁ。さては旦那もいっぱい食わされましたな?」
 鄭はそう言われてうろたえ出し
「いや、ただ通りかかっただけで、その時は邸に見えたんだがなぁ、最近視力が落ちたから…」
 と適当に誤魔化した。明るくなってからもう一度邸に戻ってみると土塀はあるが、確かに空き地であった。

 

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