旅籠の怪


 

 漢のことである。

 汝南郡汝陽県(注:現在の河南省)の西門に県が所有する旅籠(はたご)があったが、そこには恐ろしい魔物が出るという噂であった。しかし、魔物がどのような姿で、何をしたかについては定かではない。こう言うと魔物に遭遇した者がいないように思われるかもしれない。そうではない。魔物について説明できる者がいないのである。魔物に出会ったと思われる者は決まって翌朝になると自分が見た物について話すことが出来なくなっていた。大抵の場合、宿泊客は冷たい骸になって朝を迎える。さもなければ、極度の貧血状態で廃人になっている。だから、魔物に関する具体的な情報がないのである。このようなわけで旅人はなるべくこの旅籠に泊まらないで済むように旅をする。どうしても泊まらなければならない時には一階に泊まる。魔物が出るのは二階なのである。この旅籠の二階に泊まろうとする者はいなくなっていた。

「畜生!このままじゃ汝陽泊まりじゃねえか」
 郡の役人で鄭奇という男が南頓への道を急いでいた。太陽は既に西の山裾に半分ほど姿を隠していた。汝陽の旅籠まであと六、七里(注:3キロほど)ある。今日は何故か車を引く驢馬の歩みがのろく、予定なら南頓(注:同じく河南省)に着いていてもいいはずなのであるが、まだ汝陽の手前でウロウロしているのである。
「仕方ないな、一階の部屋が空いてるだろう。野宿よりはましだぜ」
 そう思い直して八つ当たり半分で驢馬に鞭を振るおうとしたその時である。
「もし、お役人様」
 呼びかけられて振り向くと、道の傍らに女が一人立っていた。塵よけに頭巾を被っているので顔はよく見えないが、まだ若い女のようである。鄭奇が無視して通りすぎようとした時、一陣の風が吹きつけて女の頭巾をはためかせた。思わず鄭奇は驢馬の歩みを止めた。女は目の覚めるような美形だった。女は言った。
「女の一人旅で困っております。脚は痛いし、日は暮れてきたし。お願いでございます。車に乗せていただけないでしょうか」
「うーむ、お困りの様子はわかっておりますが、何分こちらも公務でしてなあ…」
 鄭奇は勿体ぶった。実際、女の美貌に心を動かされていたのであるが、そんなことはおくびにも出さない。
「汝陽まで乗せて下されば結構です。もう、私、心細くて、心細くて…」
「汝陽にお知り合いでもおありで?」
「いえ、今夜は汝陽で宿を探して、明日の朝、また発ちます」
「私は汝陽で県の旅籠に泊まるつもりです。何と言っても公務ですからな」
 鄭奇の頭の中は邪な考えでいっぱいであった。女が一緒に泊まりたいと言えば車に乗せてやるし、そうでなければ理由をつけて置いて行ってしまえばいい。鄭奇はそう考えていた。
「あのう、その旅籠に私も泊まれないでしょうか?」
「あそこは官営の旅籠でしてな、泊まれるのは役人とその家族に限られてるんですよ」
 女は暫し考えてから言った。
「では、今夜だけ私をあなたの奥様ということで一緒に泊まらせていただけないでしょうか?」
「ほう、今夜だけ私の妻ということですか。それでいいんですな?ならお乗りなさい」
 女はホッとした表情で車に乗り込み、鄭奇の隣に腰を下ろした。近くで見ると、ますます美しい。たまには出張もいいことがあるな、と鄭奇はほくそえんだ。
 ほどなくして汝陽の旅籠に着いた。鄭奇は係の者に手形を見せながら、
「妻を連れている。部屋は貸し切りにしてくれ」
 係の者は宿泊者の氏名の記された竹簡を広げて、
「あいにく今日は満室です。我慢していただかないと…」
「おい、一部屋も空いてないのか?そんなことはないだろう?」
 係の者は言いにくそうに切り出した。
「空いてることは空いてるのですが…」
「何だ、空いてるのなら早く言え。勿体つけやがって」
「それが、申し上げにくいのですが、二階の部屋なんです…」
「二階」と聞いて鄭奇は一瞬怯んだが、女の美貌を思い起こした。こんな機会は滅多にない。そこで、強いて朗らかな声で言った。
「二階か、大いに結構。他の客はいないんだろう。夫婦水入らずってわけだ。さあ、案内してもらおうか」
 係の者は鄭奇と女を二階の部屋へ案内した。部屋に通された鄭奇は室内を見回した。長らく宿泊客がないせいか少し埃(ほこり)くさい感じがしたが、どうということはない普通の部屋である。
「気に入った、泊まるぞ」
 鄭奇は係の者に向かって、早く出て行けと言う風に顎をしゃくって見せた。気掛かりそうにしている係の者の鼻先でピシャリと扉が閉じられた。係の者は暫く扉の前で室内の様子を伺っていたが、
「私、怖いわ…」
 女の声が聞こえてきた。その声に鄭奇の声が応じた。
「そうか、そうか、なら、もそっとこちらへおいで…」
 二人のやりとりを聞いて係の者は舌を出して、階下へ下りて行った。
 翌朝早く、元気に姿を現した鄭奇を見て夕べの係の者はびっくりした。
「おい、あの部屋、何も出なかったぞ。お前ら、掃除が面倒だから魔物が出るなどと言って客を泊めないんだろう」
 鄭奇はからかうように言った。
「あの、奥様は?」
「まだ寝てるよ。よっぽど疲れたんだろう。しばらく寝かしてやってくれ。私は先に出発するよ」
 そう言って、鄭奇は旅籠を発った。
 旅籠では昼前に各部屋を清掃することになっていた。二階へも清掃係が上がって行った。どうも連絡に不備があったようで、鄭奇の妻がまだ休んでいることを教えられていなかったようである。清掃係は鼻歌まじりに鄭奇の泊まった部屋の扉を開けた…。

 旅籠中に非常呼集の太鼓が響き渡った。係員が皆、二階の部屋に集められた。彼らの目の前の寝台には女の死体が横たわっていた。
 旅籠の所長は急いで県の役所へこのことを報告した。間もなく、女の身元についての情報が寄せられた。旅籠の西北八里(注:4キロほど)の村に住む呉家の嫁とよく似ているというのである。最近、亡くなったばかりで、夕べ納棺する時に突然室内の灯が消え、再び灯を点すと遺体がなくなっていたのである。呉家の者が呼ばれ、遺体を確認して引き取った。
 一方、鄭奇は旅籠を出て数里行った所で、急な腹痛に襲われた。初めは我慢できたが、痛みはどんどん激化した。それでも何とか南頓まで辿り着いた。役所に転がり込んだ時には、もう意識は朦朧とし、口から泡を吹いてぶっ倒れた。そして、そのまま亡くなってしまった。

 鄭奇の死を知った汝陽の旅籠では二階を封印した。

(漢『風俗通義』)