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亡国公主の悲哀

 

―――― 明 長平公主(1630〜1646) ――――

 

平公主は明朝最後の皇帝崇禎(すうてい)帝を父に皇后周氏を母として生まれた。崇禎三年(1630)十二月のことである。名は徽[女是](きてい)、詩文を好み、また裁縫などの女のたしなみにも長けていた。
 崇禎十六年(1643)十一月、帝は勅命を下して良家の子弟の中から婿を選ぶこととなった。その条件は、
「年十四、五歳にして品性端良、家教清淳、人才俊秀なる者」
 というものであった。同時に公主の婚儀に供する一切の品々の準備が例に倣って開始された。
 婿選びの方は厳正な選考の末、候補者は姓を周とする二人の青年に絞られた。その内の一人は家庭に問題あり、という理由で退けられた。こうして残ったのが太僕公周国輔(しゅうこくほ)の子息で都尉である周世顕(しゅうせいけん)であった。選考官達は周世顕を取り巻いて、
「貴人、貴人、これ疑いなし」
 と、褒めそやしたという。
 翌年の十七年(1644)二月、欽天監(きんてんかん、注:天文をつかさどる役所)から降嫁の日取りが上奏された。公主降嫁の日取りは三月十二日に決まった。  しかし、この日に公主の降嫁はどころではなかった。

 大明帝国は黄昏の中にあった。東からは満洲族の建てた清朝に圧迫され、西は李自成の造反軍に悩まされていた。
 西の李自成は陜西の宿場人足から身を起こして造反軍の首領となった人物である。知識人や中小地主の支持を受け、西安を占領したのはこの頃であった。李自成は崇禎十七年正月に「大順国」建国を宣言し、自ら帝位についた。そして、北京に向けて東征軍を動かした。
 二、三の例を除いては、沿途の諸城からさしたる抵抗も受けずに李自成軍は進み、十二日に昌平に達した。ここには明の歴代皇帝の眠る陵墓があった。昌平は陥落し、総兵李守諱iりしゅこう)は最後の最後まで抵抗して自刎(じふん)した。
 長平公主が華やかに婚儀を執り行うはずであったこの日、皇帝陵は火をかけられて焼かれた。
 十五日には北京の北玄関に当たる居庸関(きょようかん)が陥ちた。何度か南遷も提言されたが、帝は聞き入れなかった。怒涛の勢いで李自成軍は南下し、北京に達した。
 三月十七日、李自成軍の主力は北京の西方から激しい攻撃を加えた。十八日の午後、外城が落ちた。城門を守っていた宦官が門を開いたのである。北京城守備軍は瓦解した。
 帝はこのことを知ると、周皇后と袁貴妃とともにささやかな別れの宴を開いた。そして、皇太子と二人の皇子に平民の服を着せると、母方の実家へ送り込むことにした。周皇后は自ら縊死(いし)した。
 帝は皇后の死を見届けると、剣を引っさげて長平公主の住まう壽寧宮に赴いた。長平公主は父帝の着物にすがって泣いた。
「そなたはどうして我が家に生まれたのだ!」
 崇禎帝は顔を覆って泣いた。泣きながら手にした剣を愛娘に向けて振るった。
 長平公主も覚悟は決めていたはずである。しかし、本能で思わず左腕(注:一説によると右腕)を上げて己が身をかばった。また、帝自身も愛娘の命を奪うということで、力がこもらなかったのだろう。そのため剣は公主の左腕と頬を傷つけるにとどまり、公主は一命は取りとめた。
 帝にはもう止めを刺す余力は残されていなかった。そのまま昏倒した公主を残して、もう一人の娘、昭仁公主の住まう昭仁宮へ向った。そして、まだ幼い昭宮公主を剣で突き殺した。
 続いて寵愛する袁貴妃のもとへ行き、自縊(じい)を命じた。しかし、縄が切れてしまい、死ぬことができなかった。帝は自ら剣を振るって袁貴妃の息の根を止めようとしたが、その剣は肩を傷つけただけであった。
 寵愛受けたことのある何人かの妃嬪も、帝の手で命を絶たれた。
 帝は自ら警鐘を鳴らしたが、集まる者はなかった。帝は宦官の王承恩とともに宮城の北にある景山に登ると、首を吊って死んだ。殉じたのは王承恩ただ一人であった。
 公主はほどなくして、尚衣監の何新に発見された。何新が宮城脱出を勧めても、
「父上は私に死を賜ったのじゃ。どうして生き延びることなどできよう」
 と父母の後を追おうとする。それを、
「賊が来ればひどい目に遭わせられます。ひとまず、おじい様のもとへお隠れなさいませ」
 と説得して無理矢理に連れ出し、祖父である周奎(しゅうけい)の邸へかつぎ込んだ。 
一説によれば、公主を死んだと思った賊軍がその屍を錦の褥(しとね)に包んで、周奎に下げ渡したとも伝えられている。
 主君を失った宮女達は脱出をはかったが、賊軍と出くわしてしまい、やむなく宮城の中へ引き返した。その時、魏という宮女が声を励まして呼びかけた。
「賊軍がやって来たら私達は辱めを受けるでしょう。さあ、皆様、ご自害あそばせ」
 そう言って堀に身を投げて自決した。この声に応じて宮女達が次々に堀に身を躍らせた。こうして自決した宮女は二百人にも達した。
 費と宮女は井戸に身を投じたのだが、運悪く死に切れなかった。賊軍に引き出され、李自征の部下の羅某に下げ渡されたが、相手が酔っ払ったのに乗じて刺し殺し、自決した。
 皇太子は祖父周奎のもとに走ったが、その邸の門は固く閉じられ、いくら叩いても開かなかった。皇太子と二人の皇子は李自成のもとに突き出された。李自成が西に敗走する時、連行されて行ったまま、その行方は杳として知られなかった。

 明の滅亡後、李自成は敗れ去り、北京は新たな主人として満洲族を迎えることとなった。
 順治二年(1645)、公主は清廷に身柄を保護された。公主は出家して父母の菩提を弔いたいと請願した。しかし、それは許されなかった。以前の婚約を全うするよう命じられた。
 順治帝の勅命で周世顕の行方が求められた。この詔に応じて周世顕は出頭してきた。この時、商人の張という息子が何を思ったか、名乗りを上げてきた。身上書を書かせてみると、父も祖父も仲買人とある。これを見た選考官は、
「皇帝の息女を屠夫(とふ)風情にやれるか!」
 と一喝して退けた。周世顕の身上書には、父は太僕公、祖父は儀部公で先祖代々高官を輩出した家柄とあり、選考官は満足した。
「まさにこれなり」
 同年六月、長平公主の婚儀が執り行われた。周世顕には清廷から田地、邸宅、金銭、車馬など莫大な下賜品が与えられた。公主は表面上は感謝の意を表していたが、内心は亡国の悲哀で満ち満ちていた。厚遇されればされるほどその悲哀を増した。
 公主は父母を思って日夜泣き暮らした。その悲しみが大き過ぎたせいだろうか、翌年順治三年(1646)八月十八日、十七歳の若さで帰らぬ人となった。懐妊五ヶ月だったという。

 夫君である周世顕のもとには公主の肖像画が残されていたという。そこに描かれた公主の頬には三筋の刀傷が残されていた。この肖像画を見た年老いた宦官が肖像画の前に額づいて言った。
「眉の辺りが先帝陛下に似ていらっしゃる」