Make your own free website on Tripod.com

 

児長大如此、我死何恨!

 

―――― 明 神宗妃王氏(1563?〜1612) ――――

 

 京の北40キロに明の皇帝陵がある。陵墓は全部で十三基、ここに第三代永楽帝から末代の祟禎(すうてい)帝まで十三人の皇帝とその皇后二十三人が眠っている。これを『明の十三陵』と呼ぶ。北京を訪れる人が一度は参観する観光の名所である。中でも第十四代神宗萬暦(しんそうばんれき)帝(在位:1573〜1620)の陵墓である定陵の地下宮殿は、見事な副葬品が出土したことで有名である。
 この定陵に眠るのは萬暦帝朱翊鈞(しゅよくきん)と二人の皇后、孝端皇后王氏と光宗(こうそう)の生母孝靖皇后王氏である。副葬品の中でも特に目を引いたのは萬暦帝の金糸で編んだ王冠と、珠玉を散りばめた皇后の鳳冠であった。萬暦帝の棺には黄金製の酒器も納められていた。史書に酒色に耽ったとあることの裏付けになるものである。
 さて、皇后の鳳冠であるが、中宮である孝端皇后は儀式などで頭に載せたかもしれない。孝靖皇后の方はどうであったか。その生涯を見る限り、無縁だったと思われる。そう、それは皇帝の生母らしからぬ悲惨なものだったのだから。

 孝靖皇后王氏は元は萬暦帝の生母李皇太后に使える宮女であった。王氏の奉仕ぶりは非常に熱心だったため、皇太后は深く寵愛し、常に側に置いて召し使っていた。
 萬暦帝という人物、君主としては凡庸(ぼんよう)ながら、母に対しては孝順な息子であった。ご機嫌伺いのために、しばしば皇太后の慈寧(じねい)宮を訪れた。母子が対面する時には、王氏が茶を捧げて侍った。
 王氏は豊満な美人であったという。年若い帝が心惹かれないはずがなかった。遂に王氏は皇太后の目の届かない慈寧宮内の小部屋で帝の寵愛を受けたのである。
 後宮とはまことに奇怪な世界であった。唯一の男性である皇帝に対して三千人の美女、残りは去勢されて男としての能力を奪われた宦官(かんがん)である。文字通りの女の園で、皇帝は気の向くまま手当たり次第に振る舞うことができた。その代わり、その行動は逐一、宦官によって記録される仕組みになっていた。この記録を『内起居注』という。
 皇帝が誰か宮女を召すと、『内起居注』にその年月日と場所、宮女の名前が記入され、宮女には下賜品が与えられる。この『内起居注』は宮女の腹がせり出してきた時に照合するための重要な記録であり、下賜品は証拠物件となった。皇帝以外の子供が生まれたらそれこそ大変なことなのだが、慎重には慎重を期した。
 しかし、王氏を寵幸した時、萬暦帝はこの慣例を無視した。皇太后は厳格な人柄であった。おそらく王氏を寵幸したことを知れば厳しく叱責(しっせき)し、王氏を妃嬪(ひひん)に立てようとするであろう。面倒だ、そう思った帝は慣例に則って下賜品を与えようとする宦官に向かって、
「いらぬわ」
 と手を振った。そして、記す必要はない、と命じた。これで皇太后の目をごまかせる、と帝は安心した。
 それから何ヵ月か過ぎ、王氏の体に変調が現れた。顔色はすぐれず、しばしば気分が悪そうに手巾(ハンカチ)で口元を覆った。心なしか腹もせり出して見える。これは間違いなく懐妊(かいにん)の徴候であった
 王氏は涙ながらに皇太后に事情を告げた。皇太后は叱責するどころか大いに喜んだ。萬暦帝にはすでに三人の后妃がいたが、そのどれにもまだ子はなかった。この王氏はよほどの福運に恵まれていたのであろう。ただ一度の寵幸で皇帝の種を宿したのであるから。
 皇太后は宴を催して帝を招いた。四方山話をするうちに、皇太后は宮女が懐妊したことに言及した。帝は顔色を変えると、誓ってそんなことをしていないと言い張った。そこで、皇太后が『内起居注』を取り寄せると、そこには王氏寵幸の事実がしっかり記入されていた。帝が命じたにもかかわらず、後難を恐れた担当の宦官が記録しておいたのであった。申し開きのしようもなく、口をつぐんでしまった息子に皇太后は言った。
「老いて孫がないとは。もしも皇子が生まれれば、こんなにめでたいことはありませぬ。この者は一介の宮女に過ぎぬが、子を生むからには捨ておくわけにはまいりませぬぞ」
 萬暦帝は母の言葉を受け入れて、王氏を恭妃(きょうひ)に封じた。萬暦十年(1582)四月のことである。同年八月に王氏は皇子朱常洛(しゅじょうらく)を生んだ。後の第十五代皇帝光宗(こうそう)である。
 恭妃に立てられた王氏が萬暦帝の寵愛を受けることはなかった。懐妊を理由に宮女を妃嬪に立てたという事実は、帝の面子をいたく損なうものであった。恭妃の位を与えられることと引き換えに、王氏は生きながらに葬り去られたのであった。当時、帝の寵愛を一身に集めていたのは、美貌で名高い鄭貴妃であった。
 萬暦十四年(1586)正月、鄭貴妃は皇子朱常洵(しゅじょうじゅん)を生んだ。萬暦帝はこの第三皇子(第二皇子は早世)の誕生を心から喜び、即座に鄭貴妃の位を皇貴妃に進めた。この鄭貴妃の異例の出世は朝臣達の物議をかもし出した。四年前に長子を生んだ王氏はまだ恭妃の身分に甘んじているではないか。よもや帝は長子を廃して末子を立てる気か?
 全ては萬暦帝がまだ皇太子を立てていないことに原因があった。皇太子の生母は将来の皇太后である。帝は王恭妃と鄭貴妃、どちらの生んだ皇子を皇太子に立てるかに人々は注目した。
 鄭貴妃は皇子を生んでからというもの、美貌だけでなくその権勢欲も際立ったものになった。彼女は我が子を皇太子の位につけ、行く行くは皇太后として万民から崇められる己の姿を夢想するようになっていた。
 この頃、朝臣達の間で奇妙な噂が流れた。帝が常洵を皇太子にするという誓勅(せいちょく)を鄭貴妃に与えたというものであった。
「なりませぬ、なりませぬ」
 真っ先に異議を唱えたのは諫官(かんかん)の姜応麟(きょうおうりん)であった。
「第三皇子でも皇后の生んだ嫡出ならば、皇太子に立てるのが順当です。しかし、どちらも妃嬪の生んだ子です。ならば、長子を立てるのが順当でしょう。陛下に申し上げます。まずは長子を生んだ王氏を皇貴妃に進めてから、鄭氏を昇進させるべきですぞ。そして、長子を皇太子にお立てになるのが、天下の道理というものです」
 姜応麟は帝の不興を買い、左遷の憂き目を見た。しかし、これを皮切りに紛々と議論が沸き上がった。いずれも帝の怒りを買い、ある者は罷免、降格、ある者は鞭打たれ、辞職して郷里に戻る者もあった。これを『国本の闘争』という。国本とは国家の本になる重要事、つまり立太子のことである。萬暦帝は常洛派に対して弾圧を加えた。しかし、押さえ込むことはできなかった。帝はこの怒りを王氏に向け、この一度は寵愛した妃を後宮の奥深くに幽閉した。
 母への寵愛はそのまま子に対する寵愛のバロメーターになる。常洛は父から全く顧みられない哀れな子供時代を送ることとなった。宦官達には鄭貴妃の息のかかった者が多く、常洛を粗略(そりゃく)に扱った。常洛は厳寒の中、手炙(あぶ)りすら与えられなかったという。
 常洛に対する萬暦帝の冷遇は、皇太后の耳に届くこととなった。萬暦二十九年(1601)正月、新年の挨拶に訪れた息子を、母は叱責した。
「常洛ももう十九才ですよ。どうして皇太子に立てないのです?」
「でも、あれの母親は卑しい都人(注:宮女のこと)ですから」
 と口答えすると、皇太后は怒鳴りつけた。
「そなたも都人である私が生んだ子ではありませぬか!」
 帝は慌てふためいて皇太后の前にひれ伏した。厳格な母親に萬暦帝は頭が上がらなかった。
「すぐ立てます、立てますから…」
 不遇な皇子常洛はようやく皇太子に立てられた。時を同じくして常洵は福王に封ぜられた。この決定を知った鄭貴妃は萬暦帝にすがりついて号泣したという。しかし、どれだけ泣いてもその決定を覆すことはできなかった。常洛は皇太子となったが、王氏の幽閉は解けなかった。
 萬暦三十三年(1605)皇太子常洛に皇子が生まれた。その翌年、萬暦帝はようやく王氏の位を恭妃から皇貴妃に進めた。しかし、王氏の境遇には何の変化ももたらされなかった。幽閉は相変わらず解かれなかった。すでに王氏は己の悲惨な境遇に心身ともにすり減らし、いつしか病床に就く身となっていた。己が不遇を嘆いて日夜泣き続けたために、その両目はとっくに視力を失っていた。彼女にとって唯一の希望は息子の常洛だけであった。帝の勅許(ちょっきょ)がなければ、対面することもかなわない母子ではあったが。
 萬暦四十年(1612)、王氏の容態が悪化した。常洛は母を見舞うべく父帝から勅許を得て後宮へと走ったが、門は閉じられたままであった。業を煮やした常洛は自ら鍵を探し出して門をこじ開けると、母のもとへと急いだ。常洛が見たのは痩せ細って横たわる母の姿であった。目の見えぬ王氏は震える手で我が子の姿をさぐった。常洛は王氏のやせ細った手を握りしめて嗚咽(おえつ)した。王氏はその衣を撫でながら、
「和子がこんなに大きくなられたからには、死んでも悔いはありませぬ(児長大如此、我死何恨!)」
 と言った。こうして王氏はその悲惨な生涯を閉じたのである。

 王氏の悲劇はその死後も続いた。王氏は皇太子の生母で皇貴妃に封ぜられていたため、慣例に則って葬られるべきであった。朝臣達は王氏の葬儀の執 行を奏請(そうせい)したが、帝から何の返答もなかった。朝臣達は四日間、諦めず上奏し続けた。五日目にようやく帝から詔勅(しょうちょく)が下りた。その内容に一同、愕然とした。
「天寿山に葬れ」
 と書かれてあった。皇太子の生母なのだから、すでに完成している萬暦帝の陵墓に葬られるべきを平民と同様に葬らせたのである。
 常洛の即位後、萬暦帝と合葬することを議させた。それを果たせないままに常洛が死去すると、皇帝に即位したその皇子朱由校(しゅゆうこう)が王氏に『孝靖皇太后』の尊号を追贈して、萬暦帝の眠る定陵に改葬したのである。

 寵愛厚い鄭貴妃は萬暦帝同じ陵墓に葬られることは許されず、かえって寵愛薄い王氏の方が合葬されることとなった。しかし、死後、皇太后の尊号を追贈されたからといって、生前の辛苦が消えるものであろうか?