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三人の許嫁(前編)


 

 隆年間(1736〜1795)のことである。承徳(注:河北省。清代、ここに皇室の離宮があった)の避暑山荘は和王府のそばに満という金持ちが住んでいた。妻との間に息子はなく、娘が一人あるきりであった。娘は名を秀児といい、聡明な上に文武に秀でていた。おまけに秋水のような瞳の持ち主で、見る者を魅了した。 役人でもあった満家の主人は、異動の辞令を受け取った。赴任先は密雲(注:北京の付近)である。女連れでは足手まといになると思った主人は、単身赴任することにした。家族の世話は近くに住む妻の兄に頼んだ。こうして、承徳の留守宅には妻と娘が残されることとなった。

 秀児が十六歳になった時、父親は赴任先で一人の秀才を婿に選んだ。しかし、そのことを承徳で留守を守っている家族は知るよしもなかった。 同じ頃、承徳の留守宅では一人の商人が秀児に求婚していた。母親は母親で内々に結婚を許可した。
 偶然は重なるもので、母の兄である伯父は姪が年頃になり、その容色が抜きん出ているのを見ると、独自に婿を探した。これもよかれと思ってのことである。義弟から家族の世話を頼まれていたからであった。伯父は承徳でも指折りの金持ちを婿に選んだ。ここに娘一人に三人の許婚(いいなずけ)が揃ってしまったのである。
 数日後、留守宅の母子のもとに三つの家から結納の品が届けられた。それぞれの家の使いは口を揃えて婚礼の期日を決めたいと言った。皆はようやく事態の重大さにに気付いた。 さあ、それからが大変である。急を聞いて駆けつけた伯父の計らいで、何とか三家の使いには引き取ってもらった。母は主人が帰ってこないのでどう返事をすればよいのかわからず、秀児を抱き締めて泣くばかりであった。
 事情を聞いた三人の許婚達は揃って秀児の家に押しかけた。三人が三人とも自分こそ秀児の婿だと主張して一歩も譲らない。力ずくで花嫁をかっさらわんばかりの勢いで、しまいには殴り合いを始める始末であった。一人が、
「こうなったら、お上にご裁量(さいりょう)を仰ごう」
 と言い出したため、三人はうち揃って承徳府へ訴え出た。 当時、承徳府には夏煦(かく)という名裁判官がいた。夏煦は訴状を受け取ると秀児と母、伯父、そして三人の許婚を召し出した。まず、秀児を尋問した。
「一人の娘に多数の求婚者が押しかけるというのは、別段驚くほどのことではない。娘の器量がよければなおさらだ。ざっくばらんに聞こう。そなたは一体誰に嫁ぎたいのかな?正直に申すがよい。このワシが悪いようにはせぬ」
 秀児は夏煦の言葉を跪いてうなだれたまま聞いていた。ややあって恥じらいつつ答えた。
「私にも…私にもどうしてよいかわかりません。父の命に従えば母の命に背くことになります。かと言って母の命に従えば父の命に背くばかりか、よくしてくれる伯父に申し訳が立ちません。こうなったら、私のとるべき道は一つしかありません…」
 秀児はそう言って涙を落とした。
「秀児や、気をしっかり持ちなさい。そなたはどうしたいのかね?ワシはそなたの考えを尊重しよう」
 秀児は涙を拭って顔を上げた。

「私の望むのは死でございます!」

 これには一同仰天した。秀児は続けた。

「私が死にさえすれば、誰の顔もつぶさずに済むのでございます。全ては私が原因なのですから、私が死ねば良いことなのです」
 そしてその場に泣崩れた。秀児の悲痛な叫びに夏煦は心を打たれた。しばらく考え込んでいたが、ややあって言った。
「わかった、わかったぞ。秀児よ、そなたの心情、この夏煦、よっくわかったぞ」

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