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楊白華

 

―――― 北魏 靈皇太后胡氏(487?〜528) ――――

 

春二三月    春の盛りの二三月
楊柳斉作花      楊柳の花咲きそろう
春風一夜入閨闥   春風は一夜、我が閨(ねや)に入れども
楊花飄蕩落南家   楊花(注:柳絮、柳のわた)はフワフワ南の家
含情出戸脚無力   せつなさに戸口に出るのも気だるくて
拾得楊花涙沾臆   楊花を拾って涙に濡れる
秋去春還雙燕子   秋に去り春に戻る夫婦燕よ
願銜楊花入窩裏   楊花をくわえて巣に入っておくれ

 これは恋歌である。春の盛り、風に舞い飛ぶ柳絮(りゅうじょ)を見て、遠く南に去った情人を懐かしむのである。辞句は素朴でお世辞にも艶麗とは言いがたいが、率直な恋慕の情が読む者に伝わってくる。この歌を詠んだのは恋に胸を焦がす少女ではない。この歌の主は一人の未亡人、北魏(386〜534)の孝明帝(在位:515〜528)の母、万民から国母と崇められる靈皇太后なのである。

 靈皇太后、姓は胡氏、名はわからない。父は胡国珍、母は皇甫(こうほ)氏、熱心な仏教徒の家に生まれた。叔母が高名な尼僧で、仏教を講説しに宮中に出入りしていた縁で後宮に入り、宣武帝(在位:499〜515)の側近く仕えることとなった。
 北魏の後宮には奇妙な風習があった。帝の男児を出産し、それが皇太子に立てられると生母には死を賜うのが慣例であった。外戚が政治を乱すのを防ぐために、前漢の武帝が涙を揮って鉤戈(こうよく)夫人を殺した例に倣ったのである。
 胡氏が入宮する前、宣武帝は二度皇子を儲けたが、二度とも喪った。そのため、どの宮女にも太子の母になる機会があったが、皆、諸王や公主を産むことを願い、太子を産むのを嫌がった。
「天子に跡継ぎがいなくていいものかしら?」
 胡氏は朋輩を顧みて言った。
「自分の死を恐れて皇家に跡継ぎを産まないなんて道理はないわ」
 しばらくして胡氏は懐妊した。朋輩は胡氏に堕胎を勧めたが、彼女は頑として首を縦に振らない。そればかりか人けのない夜に、
「どうか生まれるのが男でありますように。跡継ぎになれるなら、死んでも構いません」
 と誓いを立てる始末であった。
 510年、胡氏は男児を出産した。後の孝明帝である。一介の宮女と変わりなかった胡氏は皇子誕生によって正式に嬪御(ひんぎょ)の列に加えられた。間もなく皇子は母親である胡氏から引き離された。これは宣武帝の命であった。
 他に皇子のいない宣武帝は慎重には慎重を期して、その養育に当たった。良家の女達を乳母や保母に選び、隔離養育した。生母の胡氏といえども、実の子を抱くことはおろか、面会することすら許されなかった。
 翌年、皇子は皇太子に立てられた。その時、宣武帝の皇后高氏は慣例に則り、胡氏に死を賜うことを主張したが、崔光を始めとする群臣達の反対にあい、ここに皇太子の生母を殺す悪習が廃止された。代わってそれまで抑止されていた弊害が生ずる土壌が整うこととなった。すなわち、武帝が鉤戈夫人に死を賜った理由である。
「国の乱れは天子が幼く、その母が若いところに生ずる」

 515年、宣武帝が三十三歳の若さで急死すると、わずか六歳の孝明帝が即位した。最初、皇太后に封じられたのは皇后高氏であった。しかし、間もなく宣武帝の最初の皇后とその皇子の死に関与したとして高氏は皇太后の尊称を剥奪され、尼となって瑶光寺に移った。皇太妃であった胡氏が自動的に皇太后に繰り上げとなり、生母として政務に参与することになった。当初、胡太后は「殿下」と呼ばれていたが、後には自ら「朕」と称し、群臣からは「陛下」と尊称された。事実上の女帝である。
 輔政の任にあたったのは美男で博識な清河王元懌(げんえき)、先帝の弟である。二人の関係については、いつの頃からか奇妙な噂が囁かれた。胡太后がこの美貌の義弟を政治上だけでなく閨房(けいぼう)内でもパートナーにしているというのである。皇太后との過度に密接な関係が、清河王に破滅をもたらすのは間もなくのことである。
 胡太后はその陽気な性格に由来するのか、皇太后という身分から得られる権利を存分に享受した。年老いた父には莫大な富を与え、尊貴な官位を思うままに授与した。既に亡くなった母に対しては仰々しい尊号と儀礼で飾り立てた。
これは単なる孝心から来るものであろうか?答えは否、である。彼女が好んだのは儀礼の名のもとに行われる大規模な饗宴であった。父の葬儀に際しても彼女が行ったのはひたすら数を誇る法要と仰々しいパレード、そして演舞であった。
 彼女は他の親族にも気前よく尊号と恩恵を与えた。特に馮翊君(ふうよくくん)に封じた妹の配偶者に対して気前がよかった。胡太后の引き立てにより、馮翊君の夫である皇族の元叉(げんさ)は禁中の軍隊を掌握するに至った。この妹の夫である元叉はいつしか自分を引き立ててくれた太后に感謝の念を抱くよりも、自ら摂政に取って代わろうという野心を抱くようになっていた。元叉に宦官の劉騰が接近したのはこの頃である。
 日々驕慢(きょうまん)を募らせる元叉に対して警戒心を抱いたのが清河王である。彼は法によって元叉を抑え込もうとしたが、先に行動を起こしたのは元叉の方であった。それは極小規模な宮廷クーデターであった。
 520年7月、元叉と劉騰は胡太后を幽閉し、次いで食膳係を買収して皇帝の食事に毒を混ぜさせた。皇帝が最初の一口を食べようとしたその時、
「清河王に叛意あり!」
 と食膳に毒が盛られていると誣告した。皇帝はまだ十一歳、元叉の言葉を信用し、清河王を呼べと命ずる。何も知らない清河王が駆けつけ、待ち伏せしていた元叉とばったり出くわした。
「謀叛か?」
 清河王の問いに対して元叉はこう答えた。
「謀叛人はそっちだ。逮捕する」
 元叉の声に応じて、三十人の衛兵が殺到した。
 時を同じくして、劉騰は胡太后の詔と称して公卿を召集して清河王の謀叛を告げる。それに異議を唱える者はなかった。その日のうちに清河王は殺され、幼帝の親政と称して政治の実権を掌握したのである。胡太后は何度も政権奪回を試みたが、いずれも失敗した。しかし、523年に劉騰が死去すると元叉は孤立を深めた。それを機に胡太后の反撃が始まる。
 数年ぶりに息子と対面した太后は群臣の前で出家して尼になると言い出した。その理由は実の母子でありながら面会もままならないのでは生きている甲斐がない、出家した方がましだ、と言うのである。これには息子である皇帝がうろたえた。優柔な皇帝は母が自由に往来できるよう元叉に泣いて懇願した。劉騰というブレーンを失った元叉には、もはや判断力はなくなっていた。あっさり胡太后の幽閉を解いた。晴れて自由の身となった胡太后は息子や反元叉勢力と密議をこらす。かくして、525年に胡太后は復権し、元叉は誅殺された。
 胡太后は再び政治の表舞台に復帰した。五年間の幽閉生活で失われた時を取り戻すかのように、彼女は活発に行動する。厚化粧し、着飾っては遊び歩くのである。それを見て彼女の甥で、復権に尽力した僧敬は泣いて諌めた。
「陛下は国母として天下に君臨なされるのですぞ。このように軽率であってはなりませぬ」
 ムッときた胡太后は以後、この甥を宴席に召し出すのをやめた。王族の元順には面罵された。
「四十近くにもなってケバケバしい」

皇太后となったばかりの頃、射的にうち興じすぎると諌められたことがあった。しかし、そんなことで行いの修まる未亡人ではない。ある時は自ら建立した永寧寺の九層の仏塔に登って洛陽の街を見下ろした。また、公主や後宮の妃嬪(ひひん)ら女ばかり数百人を率いて嵩高山(すうこうざん、注:少林寺のあるところ)へピクニックに出かけたこともある。龍門の石窟寺院へ詣でた時には得意な射的の腕前を披露したりもした。謹厳実直な老臣崔光が口を酸っぱくして諌めるのだが、陽気な未亡人は気にかけない。
 闊達(かったつ)な未亡人、胡太后は金銭面でも気前のよさを発揮した。ある時、王公や公主、妃嬪を従えて宮中の宝物庫に行くと扉を開け放って、 欲しいだけ絹布を持って行くよう命じた。この大盤振る舞いに皆、大いに喜び、多い者は二百匹以上、少なくても百匹を持ち出した。この時、長楽公主は二十匹だけ取り、その廉潔を讃えられた。陳留公李祟と章武王元融は欲ばって余りにも沢山背負い込んだため、転倒してそれぞれ腰を打ち、脚を挫いて世間の笑い物になったという。
 恋愛に関してもエネルギッシュであった。先に述べた義弟の清河王、復権後は鄭儼(ていげん)、李神軌、徐乞らを情人にして政事に参画させた。男達にとって胡太后の肉体の重みは、そのまま権力の重みでもあった。
 ここで思わぬことが起こる。息子の反発にあうのである。
 孝明帝はいつまでも十五歳の少年ではなかった。後宮に寵愛の女もできるようになると、母の所業が浅ましく思われた。また、いつまでも政務に口出しする母が疎ましくもあった。周囲に腹心の者を集め、母の軛(くびき)から逃れ出て自由になろうとあがき始めた。先手を打ったのは胡太后の方であった。刺客を放って、息子の腹心を次々に殺したのである。手足をもがれたも同然の孝明帝は山西に土着する異民族の大ボス、爾朱栄に洛陽へ進軍してくるよう密詔を発し、胡太后へ圧力をかけようとした。
そもそも北魏は鮮卑族の拓跋部が4世紀末に建てた非漢族国家であった。始めは旧来の部族的な文化を保持していたが、493年の孝文帝の洛陽遷都以来、急速に漢化の一途を辿った。しかし、この漢化は洛陽に限ったもので、特に北辺は取り残された僻地へと成り下がっていった。建国の功臣の子孫達で編成されていた栄光ある北辺守備隊は、今や食いつめ者の流人達と同一視され、疎外された。このような差別化の中で北辺は反洛陽、反漢化の牙城となっていった。やがて将兵の不満は爆発し、反乱を起こした。523年、元叉が実権を握っていた時である。この乱の鎮定に功績のあったのが爾朱栄であった。
爾朱栄が洛陽目指して兵を進めていた折りに、孝明帝の後宮で皇女が生まれた。胡太后はそれを皇子が生まれたと偽り、孝明帝没後の混乱収拾に備えた。胡太后の準備が整うと、孝明帝が急死する。鴆毒(ちんどく)による毒殺であった。胡太后は命に代えてもと誓って生んだ我が子を手にかけたのである。翌日、皇女が新帝として即位した。数日後、胡太后は人心が安定したのを見計らって、新帝を廃位させて改めて皇族の男児から新帝を選出した。時に新皇帝はわずか三歳。この胡太后の新帝のすり替えに天下は愕然とし、爾朱栄は激怒した。
 爾朱栄は胡太后にその非道を難詰する手紙を送りつける。そして、反太后派と結ぶと、胡太后一派を粛清すべく洛陽に向けて進軍を開始し、合わせて名分を立てるために皇族の中から次期皇帝の候補者を選び出した。爾朱栄の手紙を受け取った太后も急ぎ公卿を召集して防備にとりかかった。その協議の席で情人の一人、徐乞が
「爾朱栄なんぞケチな野蛮人にすぎませぬ」
 と言って太后を大いに勇気づけた。
四月十一日、爾朱栄軍は黄河を渡って進撃してきた。もはや洛陽は目と鼻の先である。洛陽防衛軍はすでに降伏し、太后の情人達は一足先に逃げ出した。爾朱栄のことをケチな野蛮人と言った徐乞すらも。
 全てを失った胡太后も降伏の準備を開始する。亡き孝明帝の後宮の女達を出家させ、自身も髪を切って尼となった。十二日、百官が皇帝の玉璽(ぎょくじ)を奉じて新帝を出迎えた。十三日、黄河の南岸に駐屯した爾朱栄は洛陽に騎兵を派遣し、胡太后と三歳の前皇帝を連れて来させた。爾朱栄の前に引き出された胡太后は必死に弁明を試みるが、爾朱栄は衣を払って立ち上がると、太后と前皇帝を縛り上げて黄河の濁流に投げ込ませた。その頃、洛陽は爾朱栄の騎兵によって蹂躪(じゅうりん)されていた。
太后が寵愛した妹の馮翊君が亡骸を収めて葬った。儀礼好きな太后にしてはあまりにも寂しい最期であった。復権からわずか三年後の528年のことである。

 胡太后はかつて一人の若い将校に恋をした。若者の名は楊華という。名将楊大眼の息子で容貌雄偉、勇力に富んでいた。
 胡太后は楊華を一度召し出すと、その前に己の体を投げ出した。楊華が胡太后に対してどう振る舞ったかはわからない。胡太后に召されて間もなく、後難を恐れた楊華は郎党を引き連れて江南の梁(りょう)に亡命した。胡太后はその後も楊華のことが忘れられなかった。そこで作ったのが冒頭の『楊白華歌辞』である。胡太后は日夜楊花を思っては、この歌を宮女達に唱わせた。宮女達は女主人のために腕を組み、足を踏み鳴らして唱い続けた。歌に託して楊華の名を連呼するのである。
「楊花…楊花…」