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儀光襌師(後編)


 

 の中興とともに則天武后時代に誅滅された人々の名誉回復が行われた。瑯邪王の血族に関しても例外ではなかった。このことを知った襌師は寺主に己の出自を告白した。寺主は襌師がやんごとない生まれであることに大いに驚き、岐州刺史(注:刺史は州の長官)である李使君のもとへ出頭させた。
 李使君は襌師の叔父にあたる人で、襌師を喜んで迎え入れた。早速、襌師のことを朝廷に上奏しようとしたが、襌師は固辞した。
 ところで、李使君には襌師と同い年の娘があったのだが、これが襌師の清らかな美貌を見て心を奪われてしまった。何とか情けを受けたいものと願い、ことあるごとに襌師に秋波を送ってくるのだが、出家の身である襌師はその都度はねつけた。そうこうするうちに一月余りも経った。
 ある時、使君の夫人が外出して家を留守にした。娘は早速着飾って襌師の部屋へ押しかけると、情交を迫った。襌師は力を尽くして拒むのだが、娘は一向に引き下がろうとしない。そこで、偽ってこう言った。
「汚き身ではお嫌でしょう。沐浴いたしますのでお待ち下さい」
 娘は大喜びで、
「早速、用意させましょう」
 と部屋を出て行った。
 娘はしばらくして戻ってきたのだが、襌師の部屋の扉は固く閉じられており、中に入ることができなかった。そこで窓から覗いてみると、襌師が剃刀(かみそり)を手に立っているのが見えた。襌師は袈裟の前をはだけ、窓から覗く娘にこう言った。
「煩悩の根があるからあなたに迫られるのです。これさえなくなれば、もう迫られることもないでしょう」
 娘はその言葉の意味に気付くと、
「襌師様、おやめ下さい」
 と懇願したのだが、襌師は己の一物を剃刀ですっぱりと切り落として床に投げ捨てた。そして、そのまま昏倒してしまった。娘は半狂乱になって扉にとりついた。しかし、扉は堅く閉じたままでびくともしない。娘は気も動転してしまい、なす術もなく、ただただ扉の前で泣くだけであった。
 そこへ使君の夫人が戻ってきた。娘の口から変事を知り、夫である使君に急を告げた。使君が扉を破らせると、襌師は下半身を血に染めて倒れていた。幸い息はあり、名医を呼んで治療に当たらせた。まず地面を火で焼いてから、強い酒をそそいで消毒したところに襌師を坐らせた。そして、膏薬(こうやく)を塗った。適切な処置のおかげで、襌師の傷は数ヶ月もすると全快した。
 使君が朝廷に襌師が瑯邪王の子であることを上奏したところ、帝より引見を賜るとの勅命が下った。都に赴いた襌師は帝に謁見した。帝はその長年の労苦をねぎらい、あわせて多くの金品を下賜した。また、瑯邪王家の再興に言及したところ、
「父母は非業の死を遂げ、自身は不具の身にございます。今、還俗(げんぞく)して王となることは、我が願うところにはござりませぬ」
 と襌師によって辞退された。そこで帝は襌師に青龍寺の高僧の位を与え、風光明媚な山中を選んで寺院を建てよう、と提言した。襌師はこの申し出を謹んで受け入れた。
 襌師はとりわけ終南山を好み、興法寺に居を定めた。また、谷の入り口に幾つかの庵を結んだ。襌師はしばしば山中に遊んだのだが、常に僧俗合わせて数千人が恭しく仕え、その隆盛は世俗の大臣をしのぐものであった。
 襌師は早くに悟りの域に達し、しばしば未来を予見した。そのため人々の信仰をますます広く集めた。

 開元二十三年(735)六月二十三日、襌師は患うことなく入滅(にゅうめつ)した。入滅に先立ち、襌師は弟子に修身護戒のことを懇切丁寧に説き聞かせた。それから右脇を下にして、頭は北、足を南に向け、右腕を枕に横たわった。そのまま眠るように息を引き取ったのである。
 その遺骸は遺言により、少陵原の南に葬られることになった。墓所の造営も済み、柩を運び出す段になって人々は驚いた。暑い盛りだというのに襌師の遺骸には少しの傷みも見られないばかりか、馥郁(ふくいく)とした芳香が漂っていたのである。霊柩を乗せた車が城門から出る時、どこからともなく現れた数百の白鶴が空中で鳴いた。五色の雲が車の周囲にたなびき、数十里もの間消えなかった。
 襌師の墓所に建立された天寶寺には、その弟子達が留まって御霊を守ったという。

(唐『紀聞』)

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