幽霊船


 

 の大観年間(1107〜1110)広東の南洋を一隻の商船が航行していた。

 順風に乗って航行していたある日、突然風向きが変わった。逆風に吹き流されて航路を大いに外れ、外海にまで流されてしまった。
 たまたま一人の商人が乗り合わせていたが、毎年交易で海上を往来していたため、海洋のことには熟知していた。船首に立って四方を眺めていたその彼が、突然顔色を変えた。
「何てことだ。ここは外海で最も危険な海域だ。危険といっても、嵐や波なんてものじゃない。呪われてるんだ。以前、ここに流された時は命からがら逃げおおせたが、今回はどうなることやら…」

 黄昏時になると空も海もどんよりと黄色く泥のように濁って、日が暮れても薄明るかった。その内、一つの島が現れた。島には山が聳え、山頂から岩石が転がり落ちてきた。轟音がこだまし、水柱が一丈(注:約3メートル)あまりも上がった。黒雲が低く垂れ込めた山頂には赤い塔が二つあり、ぼうっと光を放っていた。商人が言った。
「これが龍怪だ」
 そして皆に号令して魔よけの弓を引き絞らせると、銅鑼や太鼓を打ち鳴らして喚声を上げさせながら船を進ませた。この時、水面に身の丈三丈余りの巨人が現れた。手に金剛槌を持って船の前を横切って行った。乗員が声を揃えて観音菩薩救苦経を唱えると、巨人は水中に姿を消した。
 商人が言った。
「ここで夜を過ごすのは危険だ。港に入らなければ…。あの山の裏に港があるはずだ。ただ、この付近の港は尋常なものではない。そのことだけは覚悟しておくように」
 言い終わると、水夫を指揮して船首を廻して急いで入港することにした。
 夜もすっかり更けて商船は港の中心に停泊した。風がなく月の明るい夜であった。商人はすぐさま飯を炊かせると、握り飯を数百個作り始めた。周囲の人がその理由を問うと、
「あとでわかる、今の内に準備しておかないと間に合わない」
 と答えた。握り飯の用意ができると商人は乗員に、
「今夜は絶対眠らないように」
 と厳命した。

 二更頃(注:午後10時頃)になって、一隻の大船が入港して来て、あやうくぶつかりそうになった。甲板にはぼんやりとした人影のようなものが幾つも見えた。商人が急いで乗員に号令して握り飯を投げ込ませると、その人影は争って握り飯に群がり貪り食った。その内、次々に他の船が現れては消えていったが、その度に商船の乗員は握り飯を投げ込んだ。四更(注:午前2時頃)を回った頃、ようやく船は現れなくなった。
 ほっと一息ついて商人が言った。
「あれは幽霊船なんだ。月に照らされてるのに影がなかっただろう?もし、握り飯が間に合わなかったら、命を取られるところだった」

 夜が明けると早々に出帆し、一刻も早くこの呪われた港を離れようと全速力で航行した。
 異様な臭気が鼻を衝いた。水面に点々と赤い斑のある毒々しい泡が見え、その中で幾百、幾千という毒蛇がのたうっているのが見えた。
 しばらく行くと遥か彼方におぼろに陸地が現れた。近寄ると荊棘(いばら)に覆われた島である。乗員の内、勇壮な者三人が上陸して様子を見に行くことになった。三人は四、五里ほど行くと、一つの城を見つけた。高さは約百尺、城門には二人の巨人が坐っていて、それぞれ手に人間をつかんでいる。巨人は人間の髻をつかみ、焚き火で炙っては齧(かじ)っていた。すっかり恐ろしくなった三人は慌てて船に戻った。幸い巨人が追って来なかったので、無事に船に戻ることができた。話を聞いて商船は即刻纜(ともづな)を解いて出発した。

 幸い順風に遭いようやく郷里に戻ることができたのは数ヶ月後のことであった。

(宋『夷堅志』)