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独腕太后

 

―――― 遼 述律平(879〜953) ――――

 

 947年5月、内蒙古のシラ=ムレン河の両岸は一触即発の事態に見舞われていた。中国本土への親征中、契丹国皇帝耶律徳光(やりつとくこう)が没し、親征軍に加わっていた皇帝の兄の子兀欲(こつよく)が自立して帝を称し、都の上京(注:内蒙古)目指して攻め上って来たのである。迎え撃つのは片腕の皇太后述律平(じゅつりつへい)、兀欲の実の祖母である。両軍は河を挟んでにらみ合いを続けた。契丹国は皇帝亡き後、実の祖母と孫が兵戈(へいか)を交えるという前代未聞の危機を迎えていた。述律平は向こう岸に布陣する兀欲軍に眼をこらし、皇族の耶律屋質(やりつおくしつ)を幕舎に呼び寄せた。しばらく後、シラ=ムレン河を渡って兀欲軍へ駆け込む耶律屋質の姿があった。

 述律平は遼の太祖、耶律阿保機(やりつあぼき)の皇后である。初めから片腕だったわけではない。姓は述律、名は平、これは漢族風の名である。契丹(きったん)名は月理朶(げつりだ)、阿保機とは従兄妹の関係にあった。
 契丹というのは内蒙古と遼寧省の境界を本拠として遊牧、狩猟生活を営んでいた民族である。他民族の支配を受けていた上に内部で多数の部族に分裂していたため、長らく統一されることがなかった。そこに登場したのが阿保機である。契丹というのは内蒙古と遼寧省の境界を本拠として遊牧、狩猟生活を営んでいた民族である。他民族の支配を受けていた上に内部で多数の部族に分裂していたため、長らく統一されることがなかった。そこに登場したのが阿保機である。
 阿保機はもとは契丹の一酋長に過ぎなかったが、財力、武力、知力を尽くして契丹族を統一した。統一を果たした阿保機を待っていたのは弟達の反抗であった。血で血を洗う争乱が続発したが、述律平の助力のもとに鎮定して、916年、正式にに契丹国の建国を宣言する。後の遼である。阿保機自らは「大聖大明天皇帝」という厳めしい帝号を称し、述律平を皇后に冊立した。
 契丹国皇帝となってからも阿保機は忙しかった。それこそ席の暖まる暇もなく、西へ東へ、文字通り飛び回った。阿保機の尽力で契丹の領土はぐんと広がった。この裏には阿保機の留守をよく守った述律平の功績が大きかった。
 阿保機の最後の大仕事は渤海(ぼっかい)征伐である。渤海とは中国東北地方の東部を領有していた大国である。渤海征伐には皇后以下、多くの皇族、重臣とその家族も従軍した。この国を挙げて行われた渤海征伐は成功裏に終わった。「海東の盛国」として二百三十年続いた渤海はここに滅亡したのである。阿保機は渤海の故地を契丹には併合せず、国名を東丹と改めて、長子の耶律倍(やりつばい)に経営を委ねた。そして本国へ凱旋を目前にして阿保機は病死してしまう。926年のことである。
 述律平には夫の死を嘆く暇などなかった。夫あってこその契丹国である。その夫は創業の基を築き上げる途中で亡くなってしまった。生まれたばかりの契丹国は脆(もろ)い。いつ瓦解してもおかしくないのである。今、自分はどうすべきか?
 阿保機の柩(ひつぎ)を守って急ぎ都に戻った述律平は、まず太后として皇帝の職務を代行することを宣言して混乱に備えた。次に彼女は有力で反旗を翻す可能性のある重臣の夫人達を招集した。
「私は未亡人となった。そなた達にも私に倣ってもらおう」
 続いてその夫である重臣達を集めて、
「先帝陛下が懐かしくはないか?」
 ときく。重臣達が口を揃えて、
「お懐かしゅうございます」
 と答えると、述律平は、
「なれば、先帝陛下のもとに行くがよい」
 と言って百人近い重臣達を殺してしまった。その場に居合わせた中国からの亡命漢人趙思温が抗議した。
「先帝陛下と最も親密だったのは太后ではありませぬか。何故、先帝のお伴をなされない?」
 これに対する太后の答えがふるっている。
「そうしたいはやまやまなれど先帝のお子達はまだ年若く、新帝もまだ決まらぬ状態だ。死ぬわけにはまいらぬわ。先帝陛下にはこれを私と思っていただこう」
 そして刀を抜いて自らの右腕を切り落とすと、阿保機の柩に放り込んだのである。以来、述律皇后は片腕となった。抗議した趙思温は殺されずにすみ、かえって重用された。

 夫の死後、混乱を収拾するためなら己の腕を断ち切ることも辞さなかった述律平にも悩みはあった。後継者の問題である。
 彼女は阿保機との間に三人の子を儲けた。皇太子である耶律倍と耶律徳光、耶律李胡(やりつりこ)である。
 生前、阿保機は三人をこう評していた。
「長子は有能、次子は慎重、三番目は話にならん」
 能力の評価、順序からいけば、長子の倍が皇位につくはずであった。しかし、述律平が選んだのは次子の徳光であった。確かに長子は俊才であるが、才走りすぎるきらいがあった。また華やかな中国文化に強い憧れを抱いており、これが母には気に入らなかった。彼女は次子の徳光に守成の才を見抜いていたのであった。帝位から遠ざけられたことに不満を抱いた倍は後に中国本土へ亡命する。この後継者の問題は後に禍根を残し、思わぬ形で述律平の身に戻ってくるのであった。
 即位した徳光は中国本土の内紛に積極的に介入した。遂に、その見返りとして万里の長城内の燕雲十六州(えんうんじゅうろくしゅう、注:河北省北部と山西省の長城以北の地域)を獲得した。これは契丹族始まって以来の快挙であった。
 946年、徳光は契丹主力軍を率いて中国本土に向けて親征した。翌年には後晋の都の開封(かいほう)を陥落させて皇帝を捕虜にした。しかし、各地で激烈な抵抗に遭い、これに手を焼いた徳光は兵をまとめて引き上げることにしたが、その途上、病気で死んでしまった。時は旧暦四月、今の五月の気候である。側近達は徳光の遺体が腐らぬよう、腹を割いて塩を中に詰めた。
 親征軍には亡命した皇太子倍の長子兀欲も加わっていた。これが親征軍を掌握すると、徳光の遺言と称して自立して帝位についた。
 冷たい亡骸となって戻ってきた息子を迎えた述律平は涙一滴、こぼさなかったという。もともと中国本土進出は述律平の望むところではなかった。契丹人には契丹の、中国人には中国の土地と物があるというのが述律平の意見であった。兀欲が自立して帝を称し、上京目指して進軍してくるいう知らせを受けた述律平は激昂(げっこう)した。
「帝は親征の途上、亡くなられ、そのお子は我がもとにいる。お子をお立てするのが筋ではないか?兀欲の父は、母である私を見捨てて逃げた親不孝者ぞ。その子に帝位につく資格があろうか?」
 そう言って阿保機の第三子の李胡に軍を率いて、兀欲を迎え撃たせた。しかし、兀欲の率いる契丹の主力軍に俄仕立ての討伐軍に太刀打ちできるはずはなかった。李胡敗れるの報に接した太后は自ら討伐軍を率いて出陣し、シラ=ムレン河を挟んで両軍はにらみ合ったのである。

 兀欲の陣営に駆け込んだ耶律屋質は述律平からの書状を差し出した。和議の申し入れであった。しかし兀欲の対応はけんもほろろであった。その気になれば討伐軍など一ひねりだと言うのである。それを耶律屋質は言葉を尽くして説得した。ここにようやく話し合いの場が持たれることになった。
 しかし、講和の場で祖母と孫は激しく互いを詰り合い、一向に進捗(しんちょく)が見られなかった。そこで耶律屋質は述律平に問うた。
「皇太后におかれましては太祖皇帝ご崩御のみぎり、何故に次子をお立てになられたのでしょうか?」
「それは太祖皇帝のご遺志だ」
 次に耶律屋質は兀欲に問うた。
「陛下は何故に皇太后の命なく勝手に帝位に就かれましたのですか?」
「我が父は皇太子の地位にありながら帝位に就くことを許されず、亡命する羽目になった。同じ過ちを犯すわけにはまいらぬ」
 耶律屋質は語調を強めて言った。
「何ということでしょう。皇太子は己が母御を捨てて亡命なされたのですぞ。しかも陛下は祖母君にお会いになっても不遜な態度を取り続けられる。皇太后も皇太后だ。次子を偏愛するという不公平を犯しながら、何でも太祖皇帝のせいになされる。もう、勝手になされるがよい。それぞれ陣にお戻りになって決着でも何でもお付けなさるがよかろう」
 耶律屋質に突き放された述律平は泣き出した。実際、彼女が率いてきた討伐軍は日々、逃亡が続出し、かなりの兵力が失われていたのである。
「太祖皇帝は弟達に背かれ、ご苦労を重ねられた。善かれと思ってしたことなのだが、長幼の序を乱したのはそもそも過ちであった。太祖皇帝の残した国家を争乱に導くなどどうしてできよう」
 泣き伏す祖母の姿を見て兀欲も考えるところがあったようである。
「我が父でさえ兵乱を起こされなんだ。太祖皇帝の孫である私が自ら国家を混乱に陥れるなど許されぬことだ」
 ここに祖母と孫は和解した。問題は帝位の行方である。意見を求められた耶律屋質は言った。
「皇太后のお許しさえあれば、永康王(注:兀欲のこと)に受け継がれるのが順当だと思われますが」
 その時である。
「私がいるではないか!」
 李胡が絶叫した。それを耶律屋質が厳しい口調で遮った。
「何をおっしゃる。物事には序列がありますぞ。帝位は嫡長子が継承すべきものです。何故、弟君のあなたに継がせられましょうや。その上、あなた様の評判は芳しくござりません。今や、大勢は永康王に傾いております。覆すことなど無理にござりまする」
 述律平はハッとした。そして、李胡に言った。
「そなたのことを私も先帝陛下も甘やかしすぎたようだ。いくらそなたを帝位に就けたくとも、人心を失っておるようでは無理なことよ」
 李胡はがっくりとうなだれた。正式に兀欲が即位した。しかし、祖母と孫のわだかまりは消えなかった。後に述律平は謀叛の嫌疑により、李胡とともに都の上京から祖州(注:現在の内蒙古。上京の西)に移され幽閉される。そこは阿保機の陵墓を望む場所であった。
 953年、太后は幽閉先で亡くなる。時に七十五才。彼女の行動を律したのは国家の安泰の一事であった。

 述律平が美人だったかどうかわからないが、ウイグルの血を引いていたそうである。肌白く、彫りの深い片腕の太后、何とも想像力をかきたてられるではないか。