月餅閑話


 

 暦の八月十五日は中秋節である。つまり十五夜のこと。日本では団子を食べるが、中国では月餅を食べる。
 中国では中秋節が近づくと、食料品店の店先に月餅が山積になる。日本のバレンタインデーではないが、年間の月餅の売上げの八割以上がこの時期に売れるのではないかと思われるほどである。中秋節に月餅を食べる風俗、一体いつ頃から始まったのであろうか。

 伝説によると唐の高祖李淵が中秋節に吐蕃(とばん)商人の献上した圓餅を食べたのがその初めであるらしい。その時、高祖は群臣と中秋の宴を開いていたのだが、圓餅を手にとると満月に向けて差し上げてこう言った。
「圓餅を捧げて蟾蜍(せんじょ)を迎えよう」
 そして、この圓餅を群臣とともに分けて食べたという。
 時代は降ってモンゴルが中国本土を支配した元の末期、不満を抱く漢族による挙兵が各地で起こったが、その際には月餅が意外な役割を果たした。
 反モンゴルの領袖である張士誠が各地の同志への手紙を麦餅 ―― 当時、そう呼ばれていた ―― に隠して送った。この伝説によれば中秋節に麦餅を贈る習俗があったため、怪しまれずに密書を送ることができたそうである。挙兵の日が中秋の旧暦八月十五日だったので、以来、それを記念してこの日に月餅を食べるようになったというのだが、その真偽のほどは定かではない。

 ところで、月餅の名称であるが、これは南宋時代にすでに現れていた。しかし、この頃にはその丸い形を意味するだけで、中秋節に食べるものとはされていなかったようである。
 実際、月餅が中秋に広く食べられるようになるのは明代以降のことである。月餅の記載が多く見られるようになり、それを見る限り形状も現在のものに近くなっていた。
 十六世紀に書かれた『宛署雜記』によると、それまで餡を入れなかったものに菓子屋が木の実などの餡を入れて売るようになった。ここでいう餡は中身を意味するものである。また、高価なものが出回るようになった。中秋節の贈答品となるのもこの頃である。月餅の大型化も進んだ。『帝京景物略』によれば大きなものになると直径が二尺、つまり60センチほどもあったそうである。『明宮史』には残った月餅は乾燥させて、大晦日に家族で分けて食べるとも記されている。これを「團圓餅」という。

 一口に月餅といっても色々な種類があり、三種に大別される。京式(北京)、蘇式(蘇州)、広式(広東)が代表的で、皮の硬さや餡の種類がそれぞれ違うのである。京式は硬い皮に甘い餡、蘇式はパイのような脆(もろ)い皮が特徴で、広式はシロップを練りこんだ皮の表面に美しい文様が型押しされている。小豆餡だけでなく、ハムや椎茸、肉などが餡として用いられるのも広式だ。皮の特徴から見ていくと。現在、日本で流通している中○屋やヤマ○キの月餅は広式に近いものなのであろうか。
 『燕京歳時記』によれば北京で一番美味なのは前門にある「致美斎」の蘇式月餅だとか。ほかに「通三益」の山西式、「佛照楼」の広式が有名だったそうである。いずれも食べたことがないのでその美味さは見当がつかない。

 中秋節とはそもそも満月の円さに一家団欒をかけたものである。月餅を食べるというのも一家団欒を願う象徴だとか。
 十五夜のお月見に、いつものお月見団子ではなく、月餅を食するという過ごし方はいかがなものであろう。