雲英(二)


 

 が興味深く見ていると、葦(あし)で編んだ筵(むしろ)の下からほっそりとした白い腕が二本現れ、小さな瓶(かめ)を差し出した。受け取って一口飲んだ航は驚いた。
 その味わいはまさに甘露かと思われ、立ちのぼるえも言われぬよい香りが戸外にまで漂い出るほどであった。航は飲み終えた瓶を返す時、筵を掲げてみた。奥には一人の娘が佇(たたず)んでいた。露のようにたおやかで、その清らかな姿は玉を思い起こさせた。肌は春の日にとける淡雪のようで、粉黛(ふんたい)を施さないその面は透き通るよう。結い上げられた黒髪のほつれ毛が両頬にかかっているのが、また何ともいえず趣があった。
 航があまりにも見つめていたため、娘の方は恥ずかしくなったようで、壁の方に体を寄せて袂(たもと)で顔を覆ってしまった。その姿は幽谷にひっそりと咲く紅蘭を思わせたが、娘の方がはるかに豊麗であったであろう。航はそう思った。
 娘に心引かれて立ち去りかねた航は、老婆に向かって言った。
「ええ…、伴の者も馬もひどく腹を空かしております。厚かましいお願いではありますが、当家でしばらく休ませていただきたいのですが…。もちろん、お礼はいたしますので、どうかお許し願いたい」
 そう言いながらも目は娘に釘付けになっていた。老婆はそれを知ってか知らずか、
「どうぞ、若様のよろしいようになさいませ」
 と、快く願いを聞き届けてくれた。
 しばらく休んでから、航は老婆に話しかけた。
「先ほどお見かけした娘御は驚くばかりのご麗質ですな」
「雲英のことでございますか。あれは私の孫娘にござりまする」
「ご器量にたがわぬ美しいお名前ですな。あれではなかなか婿がねも決めかねておいでではあるまいか。世間には娘の器量がよすぎたばかりに婚期を逃した例もいくつかありますぞ。そこで提案なのですが、私ではどうでしょう。もちろん、十分な支度金を出します。どうか妻にもらい受けたい」
 老婆はジッと航を見据えて言った。
「あの子にはもう許嫁(いいなずけ)がおります。ただ、まだ時期が来ておりませぬが」
 返事を聞いて、航はガックリと肩を落とした。老婆はその様子を好意的な眼差しで見ながら続けた。
「私は寄る年波で病がち、しかも孫はあの子一人だけときております。つい先日のことですが、神仙がお見えになって霊薬を一服お授けに下さり、こうおっしゃったのです。
『この霊薬は玉の臼と杵で百日の間搗かねばならぬ。それから飲むのだ。さすれば天よりも長い寿命を授かるであろう』
 ですから若様が孫を嫁に迎えたいと思し召されるなら、玉の臼と杵を手に入れて下さりさえすれば、喜んで差し上げましょう。さもなければどんなにお金を積まれても役には立ちませぬ」
 航はまだ娘の嫁ぎ先が決まっていないと知ると、腰を低くして頼んだ。
「わかりました。百日の期限を下さい。必ずその臼と杵を持って参ります。待っていて下さい。くれぐれも私が戻るまでは誰が持ちかけようと他の人との縁談を進めるようなことはなさらないように」
 老婆は満足そうに頷(うなず)いた。善は急げとばかりに航は慌ただしく出発の用意をした。その間中もう一度、雲英の姿が見えないかと奥へ目をやったが、娘は筵の奥から出てこなかった。そこで、航は思いを残して立ち去ったのである。
 都に帰り着いてからの航は受験勉強そっちのけで、もっぱら市場を巡り歩いて玉の臼と杵を探したのだが、一向に手掛かりは得られない。熱中したあまり街中で友人と出会っても気付かない有り様で、皆は落第のショックで気が違ったのだろうと噂し合った。

 こうして何ヵ月か過ぎたある日のことである。航はふと一人の玉売りの老人と出会った。老人は航の探し物のことを知るとこう言った。
「先日、河南の薬屋の卞(べん)親爺が手紙を寄越したのですが、それに玉の臼と杵を売りに出すと書いてありましたなあ。ここは一つ、紹介状を書いてあげましょう」
 航は紹介状をもらうと、すぐに河南に卞親爺の薬屋を訪ねた。そこには夢にまで見た臼と杵があるではないか。売ってくれと頼む航に卞親爺は言った。
「二百貫でなければお譲りできません」
 航は懐を探ってみたが、二百貫もの大金を携えて来ていなかった。

 

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