雲英(三)


 

 切っては見たものの、卞親爺は頑として首を縦に振らない。航は金を取りに戻ろうかとも思ったが、期限の百日に遅れる恐れがある。そこで、連れて来た下男や馬を処分して二百貫の銭を揃えて臼と杵を買い取ると、その足で藍橋に向かうことにした。
「臼と杵、揃いました」
 ヨレヨレの姿で現れた航に、老婆は大笑いしてこう言った。
「これほど律儀な方もお珍しい。こうなっては娘を惜しむことなどできませぬわ」
 雲英も姿を見せ、
「それはお薬を百日の間、搗いて下さってからのお話ですわ」
 と言いながら微笑んだ。航はその微笑みを見た途端、新たな力がみなぎるのを感じた。今の彼にとって薬を百日搗くなど何でもないことであった。
 老婆は懐から大事そうに薬を取り出して航に手渡した。航はすぐに搗き始めた。昼はひたすら薬を搗き、夜は休むのであるが、航が休む時刻になると老婆が臼と杵を奥の部屋に引っ込めてしまう。そのまま寝ようとする航の耳に奥の部屋から薬を搗く音が聞こえてきた。扉の隙間から覗いた途端、部屋中に満ちた雪のような輝きに目が眩んだ。目が慣れてくると、その光の中心で月に住む玉兎(ぎょくと)がせっせと薬を搗いている姿が見えた。玉兎の雪のようなうぶ毛の一本一本が光り輝いているのである。航はようやく樊夫人の詩の意味がわかったような気がして、決心もますます堅くなった。
 ついに百日が経った。老婆は航から薬を受け取って飲んだ。
「さて、ワシは一足先に仙洞へ行って親戚に知らせてきましょうぞ。裴どのをお迎えする準備をせねばなりませぬからな」
 そして航に、
「すぐに迎えを寄越しますから、お待ち下され」
 と言い残して雲英と共に山へ出掛けて行った。まもなく立派な供揃えが現れて、航を迎えて山へ向かった。
 山へ入ってみれば、雲に届くばかりの大邸宅がそびえ立ち、その扉に散りばめられた真珠が日の光に輝いていた。その扉が重々しく開き、中へ通った航は調度の数々の見事さに目を奪われた。粋を凝らした几帳(きちょう)や屏風もあれば、真珠や翡翠の装飾などないものはなく、王侯貴族の邸に匹敵した。華麗なお仕着せ姿の小姓や侍女に導かれて航が几帳の奥へ通ると、婚礼衣装をまとった雲英が待っていた。
 式を滞りなく終えると、航は老婆を附し拝んで涙ながらに礼を述べた。すると老婆は、
「裴どのはご存知ないようじゃ。あなたは裴真人の子孫に当たられるお方ゆえ、うちの孫と結ばれて仙界に入るよう定められておりましたのじゃ。この婆に感謝なさるなど筋違いもいいところですぞ」
 と言うのであった。それから数多くの賓客に引き合わされたのだが、いずれも神仙で俗人は一人もいなかった。最後に高々と髪を結い上げ、虹色の衣を纏った仙女が現れた。新婦の姉だとのこと。航が挨拶をすると、仙女は笑ってこう言った。
「裴どのは私をお忘れと見える」
 そう言われても航にはピンと来ない。
「初めてお目にかかる身ゆえ、忘れるも何もございませぬと思いますが」
「鄂渚(がくしょ)から襄陽(じょうよう)まで船でご一緒したではありませぬか。それもお忘れか」
 ようやく航もハッとした。あとで侍女に聞いてみると、
「お嬢様の姉君で雲翹(うんぎょう)夫人とおっしゃいます。劉綱(りゅうこう)仙君の奥方ですが、今は仙界に入られて玉皇様の女官を務めておいでです」
 との返事が返ってきた。
 賓客が帰ると、老婆は航夫婦を玉峰洞にある珠玉で造られた庵に住まわせて、航に赤い雪と玉の粉を食事として与えた。食べ続ける内に、航は体が軽くなるのを感じた。また、髪の毛は緑色に変わり、神通力を備えるようになった。こうしてついには解脱(げだつ)して上仙となったのである。

 都の友人達の間では航が姿を消した当初は、気が違ったあげくの失踪だろうと噂し合っていた。一年経ち、二年、三年も経つと、誰も航の名前を口にしなくなった。

 太和年間(827〜835)になって、航と会ったと言う者が現れた。それは航の友人の盧である。
 所用で出かけた時、藍橋の宿場の西で航に出会った。航は盧に仙道を得た経緯を物語り、藍田の美玉十斤と天上の霊丹一粒を贈った。そして、思い出話に時を忘れ、親しかった人々への手紙をことづけた。別れに際して盧は頭を下げて、
「何か一言でいいから仙道についてご教示願いたいのだが」
 と頼むと航はこう言った。
「『老子』でも言ってるだろう、
『心を虚しくして腹をみたせ』
 と。しかし、今の人は心をみたすばかりじゃないか。これで仙道を得られるはずないだろう」
 返す言葉もなく茫然としている盧に、航はこう続けた。
「心がみちれば自ずと妄念が起こり、腹が漏れれば精気が溢れ出てしまう。これで虚実の意味がわかるだろう。凡人には凡人なりに不死の術も還魂丹の処方もあるのだが、君にはまだ教えられないなあ。まあ、いずれまた改めて話すことにしよう」
これには盧も諦めて、はなむけの食事を共にしただけで別れた。以上が盧の述べたものである。

 その後、航と出会った人はいない。

(唐『傳奇』)

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