玉樹後庭花

 

――――陳 張麗華(560?〜589)――――

 

 国の絵画に仕女画という分野がある。仕女というと堅苦しく聞こえるが、いわゆる美人画のことである。たいていは神話伝奇や歴史故事、詩歌小説に基づいて描かれているので、お題がなくとも構図でおおよその見当がつく。琵琶を抱えた馬上の美人は王昭君、梅花の下にまどろむのは寿陽公主と相場が決まっているのである。満月のように丸くくり抜かれた門の前に佇む美人、桂の木の下で一匹の兎が杵を手にして臼に向かっていれば、これは南朝最後の王朝陳(557〜589)の後主の寵妃張貴妃である。

 張貴妃は名を麗華という。もとは兵家の出身だというが、彼女が生まれた時には貧しい筵織りを家業としていた。名に恥じない、類まれな美貌の持ち主であった。よく美人は男に好かれる努力をしないと言われるが、この張麗華は男心を掴んで離さない厭魅(えんび)というテクニックの持ち主であった。見つめる目にものを言わせたり、相手の気を逸らさない話術をマスターしていたのである。太建元年(569)に陳叔宝(553〜604)が皇太子に立てられた時、宮女に選ばれて入宮した。時に十歳。入宮後、麗華は別の妃嬪の侍女となった。
 ある時、この妃嬪のもとを訪れた陳叔宝が張麗華に目を止めたことから、彼女の人生は変わる。厭魅の術を発揮するコケティッシュな美少女に、陳叔宝は一目でポ〜ッとなってしまった。陳叔宝は早速、自分に許された権利を誰はばかることなく行使した。お手つきとなった張麗華は幸運なことに皇子を生み、後宮内での己の立場を確立した。
 582年、陳叔宝が即位する。陳朝最後の皇帝後主である。張麗華は貴妃に立てられ、寵愛はますます深まった。その寵愛の証として後主は即位の翌々年、高さ数十丈もある宏壮な臨春、結綺、望仙の三つの楼閣を築いた。一丈は3メートル弱だから、とてつもない高層建築である。こしらえも豪華で窓や欄干は高価な香木造り、内外の調度は豪奢を極めた。下には奇石を積んで築山をなし、池を掘って水を満たした。微風が吹くとえも言われぬ香りが立ち昇り、その香りは数里先まで漂った。また、朝日が昇ると装飾の金銀珠玉に照り映え、まばゆいばかりに輝いた。自身は臨春閣に住み、張貴妃を結綺閣に、他の寵愛の二人の妃嬪を望仙閣に住まわせた。この三つの楼閣は中空に架け渡された廻廊でつながれ、互いに往来しては交歓したのである。 結綺閣に移った麗華の美貌はますます冴えわたった。背丈ほどもある自慢の黒髪を高々と結い上げ、窓辺で鏡に向かって化粧している姿はまるで仙女が天下ったかと思われた。後主は臨春閣からその姿を眺めて楽しんだ。
 麗華の微笑みに後主のインスピレーションは刺激された。後主は寵妃の艶麗を讃えてうたうのである。

   妖姫臉似花含露    妖姫の臉(かお)は花の露を含むに似て
   玉樹流光照後庭    玉樹の流光は後庭に照る

 時には自作の詩にメロディをつけて千数百の宮女達に舞い歌わせて楽しんだ。
 張麗華に溺れきっていた後主は片時も彼女なしには過ごせなかった。実際、後主の皇后はとっくに寵愛を失い、念仏三昧の日々を送っていたから、張麗華が事実上の皇后のようなものであった。後主は政務を処理する時も、寵妃のしなやかな体を膝に抱いて放さなかった。張麗華は聡明怜悧で抜群の記憶力の持ち主だったから、後主の膝の上で百官の上奏を聞き、一緒に目を通した上奏文の一言一句漏らさず憶えていた。後主や百官が細かい事務処理をうっかり忘れると、彼女はニッコリ笑って指摘するのである。政務の大嫌いな後主はこれに喜び、国事を決裁する時には膝の上の張麗華に、
「貴妃よ、これはどうじゃ?」
 と意見を求めるまでになった。おそらく張麗華は玉を刻んだような指を頬にあて、後主の顔を見上げながら答えていたのであろう。しまいには大臣の進退にまで口を出すようになった。
 さて、陳朝の国事が後主の膝の上で決裁されていた頃、北では隋の文帝が南北統一を目指して着々と準備を進めていた。この文帝、後主とは正反対の人物で放蕩などには見向きもせず、ひたすら国力の充実に努めたのである。

 588年の暮れ、遂に陳朝討伐軍が編成された。五十一万八千の大軍が怒濤のように南下し、長江の北岸に布陣した。この危機状態にあって、当の陳側は年末年始の祝賀行事の準備に忙殺され、迎撃どころではなかったのだから笑ってしまう。
 前線から「隋軍至る」の飛報が届けられた時、陳叔宝は大晦日に催された盛大な忘年会ですっかり酔いつぶれて眠っていた。新年の宮廷祝賀に出席するのも忘れ果てて眠りこけていたのである。飛報は開封されないまま枕元に捨ておかれ、そのまま忘れられた。抜群の記憶力を誇る張麗華がわざと見せなかったのである。前線の方でも兵士達が正月の振る舞い酒ですっかり酔っぱらっていたので、隋軍は易々と長江を渡ることができた。
 正月二日、ようやく目が覚めた後主はやっと状況を知った。翌三日に公卿を招集、四日に諸将を派して防戦態勢を敷いた。後主としては急ぎに急いだのである。しかし、万全の準備を整えた隋軍の前に手も足も出ず、却って投降者が続出する始末であった。あれよあれよと言う間に首都の建康(注:現在の南京)は包囲されてしまった。成す術も知らない後主は張麗華を抱き締めて、日夜泣き続けるばかりであった。
 二十日、首都防衛の南面が突き崩されると、陳軍は一挙に瓦解した。宮城内では文武百官が遁走し、後主の側には僅かに近侍の者が数人残っているだけであった。呆れたことに、この期に及んでも彼の頭の中にあるのは張麗華や他の寵愛の妃嬪のことであった。近侍の一人が、
「かくなる上は玉座に端座なさって、敵軍の入来をお待ちになるがよろしい」
 と忠告したのに対して、後主の答えはこうであった。
「朕には朕の考えがあるのじゃ」
 袖を掴んで引き留める近侍を振り切って、後宮へと駆け込んだ。そして張麗華と別の寵妃、孔貴人の手を引いて、井戸へと走った。縄目の恥辱を避けるために、井戸に身を投げるのではない。中に隠れて隋軍をやり過ごそうというのである。ほとほと情けない人である。呆れながらも近侍達はなおも井戸の前に立ちはだかって引き留めたのだが、それを押し退けると、とうとう井戸の中に入ってしまった。
 間もなく宮城に乱入した隋軍は略奪暴行を働きながら、後主の姿を探し求めた。玉座はもぬけの殻であった。臨春閣ももぬけの殻であった。ここで隋軍は後主の寝台の下から未開封の飛報を見つけた。
 別の宮殿の扉を蹴破って中に飛び込むと、そこには一人の少年が静かに坐っていた。少年は将士の姿を見ても慌てることなく、ただ、
「まだ作戦は終わっていないのだろう。ご苦労なことだ」
 とねぎらいの言葉をかけたので、その場に居合わせた隋の将士は皆、感服したという。
 実はこの少年は前年に、皇太子に立てられた張麗華の生んだ皇子深であった。時に十五歳。同じ頃、彼の父親は冷たい井戸の底で母親を膝に抱いて生きた心地もなく震えていたのである。
 後主が後宮の井戸に隠れているという情報が将士のもとにもたらされた。兵士達は井戸を囲んで誰かいるかと呼びかけた。返事はなかった。そこで石を投げ込もうとすると、
「待ってくれ!」
 と悲鳴が聞こえた。急ぎ、長い綱が投げ込まれた。いざ引き揚げようとすると異様に重い。不思議に思いながら引き揚げた一同は唖然とした。何と綱の先にはずぶ濡れの後主と張麗華、孔貴人がぶらさがっていた。道理で重いはずである。
 これが南朝陳のあまりにも情けない最期であった。
 討伐軍の総司令官である晋王楊広は後主捕獲の報を受けると、張麗華を生かしておくよう伝令を遣わした。だが、この指令を受けた指揮官は、
「昔、周が殷の紂王を征伐した時、周公旦は顔を覆って妲妃を斬った」
 と主張すると、張麗華を引き出して斬殺させた。これが結綺閣の主、張麗華の最期であった。
 この報告を受けた楊広は血相変えて怒ったという。
「この仕返しはいつかしてやる」
 この予言は後に実現する。楊広はやがて文帝の後を継いで即位して悪名高い煬帝になったのだから。

 さて、張麗華と兎の関係についてである。
 正史には書かれていないが、陳叔宝は張麗華のために結綺閣以外に桂宮を建ててやったそうである。桂宮は月にあるという宮殿の名前である。宮門は満月をかたどり、水晶の屏風をめぐらした。庭に鳥が入らないよう、スッポリと網で覆った。庭には桂の木が一本植えられただけで、常に綺麗に掃き清められた。桂の下には玉製の杵と臼が置かれ、よく仕込まれた白い兎が一匹、薬を搗いていたのである。それを眺めているのは白衣をまとった張麗華。陳叔宝はこの桂宮を月に見立て、張麗華を月の女神嫦娥に見立てたのである。

 日本の兎は餅をつくが、中国の兎は仙薬を搗くという。きっと兎は彼女の美貌を保つ妙薬をひたすら搗き続けたのであろう。