州(注:現在の浙江省)刺史(注:州知事)李伯誠に、元平という息子がいた。彼には生まれながらに左の股に小さな朱い痣があった。大暦五年(770)、元平は勉学のために親元を離れて東陽(注:浙江省)の寺院へ移り住んだ。
 一年ほど経ったある夕方のことである。勉強にも倦んだ元平がふと窓外に目をやると、目の覚めるような美しい娘が小間使いを連れて通りかかった。娘は元平の部屋の前を通り過ぎて寺務所へ消えて行った。寺務所の外には小間使いが一人で残っいた。
 元平は本を閉じると部屋を出て、いそいそと小間使いの側へ近付いた。
「今、ここを通った方はどなたです?一体、どこのお嬢さんです?」
 小間使いは胡散(うさん)臭そうに、元平を頭のてっぺんから足の先まで眺めやった。
「お知り合いでもないのに馴れ馴れしい。こんなこときちんとしたお家柄の方のなさることじゃありませんわ」
 そう答えたきりそっぽを向いてしまった。しかし、元平は小間使いの素っ気ない態度にもへこたれず、小間使いにまとわりついていた。
 しばらくして、寺務所から娘が出てきた。娘は元平の姿を見るなり、ニッコリ微笑んだ。まるで、旧知の間柄のような打ち解けた様子であった。
「あなたをお探ししておりましたのよ」
 娘は言った。元平は喜んで娘を部屋に引き入れた。
「僕を探しに来たってどういうこと?」
 元平の問いかけに対する娘の答えはこうだった。
「あなたにお会いして、昔のことをお話したかったからです」
 昔と言われても元平には娘とは一面識もなく、今日が初対面のはずであった。考え込む面持ちの元平に娘は言った。
「いずれお話しますわ。今は余計なことなどお考えにならないで。夜は短いんですもの。あなたは私がお嫌いなのかしら?」
 その夜、娘は元平の部屋に泊まった。明け方近くになって、娘は小間使いを連れて帰って行った。以来、娘は毎晩、元平の部屋を訪れるようになった。
 七日目の晩のことである。娘が元平に言った。
「そろそろお話する時期が参りました。実を申しますと、私はこの世の者ではありません。あなた、怖くなくって?」
 元平は娘のことを好きになっていたので、恐ろしいわけがなかった。
「怖いだなんて。愛しくて堪らないくらいなのに。さあ、遠慮しないで何でも話してみて」
 娘は元平に促されて話し始めた。

「生きていた時の私は江州(注:江西省)刺史の娘でした。あなたは父の役所の門番でした。ご身分は賤しく、貧しい生活を送っておいででしたが、あなたは惚れ惚れするような美男でしたのよ。私達はご縁があって夫婦の契りを結びました。これは人に知られてはならないことでした。百日、たったの百日でした。そう、私達が夫婦でいられた時間です。契りを交わしてちょうど百日目に、あなたはご病気でお亡くなりになられました。人目を忍ぶ妻でしかない私は、泣くことすら許されませんでした。どんなに辛かったことか。そこで、私はあなたとのご縁を来世に繋ぐことにしたのです。生まれ変わってもわかるようにあなたの左股に朱筆で印を付けて、千手千眼観音様に願をかけました。来世ではお互い釣り合う家柄に生まれますように、今度こそ真の夫婦になれますように、と朝晩お祈りしましたのよ」

 元平は娘との前世からの因縁の不思議に感嘆した。それと同時に不幸に終わった恋を来世にまで繋ごうとした娘の心根を憐れに思い、胸に抱き寄せた。娘は元平の胸に頭をもたせ掛けたまま続けた。
「そろそろ夜が明けます。私はもう行かなければ」
「明日も来てくれる?」
 娘は寂しそうな表情を浮かべて、元平を見上げた。
「これでしばらくお別れですわ。私、やっと生まれ変われることになりました。ですから、もうここには来られないのです。ああ、そんな悲しい顔をなさらないで。これはおめでたいことなのよ」
 娘は指先で元平の涙をそっと拭ってやった。
「今から言うことをよく聞いて忘れないで下さい。来世の私の父は今は県令ですが、私が十六になる時には節度使に昇進しているはずです。その時になったら、結婚を申し込んで下さい。どうか他の方とはご結婚なさらないで待っていて下さいね。尤も私達のご縁はもう定まっているので、あなたが他の方と結婚したくても無理なことです。ああ、東の空が明るくなってきた…」
 元平の胸の中で娘の姿はだんだん薄れていった。
「十六年後、十六年後にお会いしましょう…。生まれ変わったら私には前世の記憶は失われてしまいます。今度はあなたが私に前世のお話を聞かせて下さる番ですわ…」

 朝日の射し込む部屋で、元平は娘の幻影を虚しくかき抱いていた。

(唐『広異記』)