Make your own free website on Tripod.com

 

約束


 

 沙(注:湖南省)の人、尤深は気韻(きいん)に富んだ美少年であった。彼が一人で湘渓を散策した時、古い廟を見つけた。
 垣根は崩れ、草はぼうぼうと生い茂り、どこにも人の気配がなく、さびれ果てていた。詣でる者のない祭壇には一体の神像がさびしそうに安置されていた。それは非常に美麗な紫姑神像で、まるで生きているかのようであった。しかし、長年の埃が積もり、蜘蛛の巣がはってすっかり汚れていた。尤深は多感な人であったので、この様子を見て何とも物悲しくなった。袂で神像の埃を拭いながら言った。

「かくも麗しき仙女がこのような鄙びた地に一人でいようとは…。もしも夜が寂しくて堪らなければ、いつでも僕の家にお出で下さい」

 その夜更け、尤深が寝ていると、誰か門を叩く者がある。誰かと問うと、優しげな女の声が返ってきた。
「紫姑神でございます。故あって下界に流されております。貴方様のお情けに深く感じ入り、こうしてやってまいりました。もし、お厭いでなければ、夜伽を務めさせていただきとうございます」
 尤深が門を開けると、月明かりの下に仙女の如き美女が佇んでいた。まさしく昼間の神像が命を持って尤深のもとを訪れたのである。手を握ってみると血の通った温もりが感じられた。尤深は狂喜して女を抱き上げると、そのまま寝室へ連れて行った。
 以来、女は毎晩、尤深のもとを訪れた。不思議なことに他の者には女の姿が見えなかった。
 ある晩、女は懐から紫色の絹の巾着を取り出した。
「これは紫絲嚢(ししのう)と言って、遠い昔、玉帝陛下に拝謁した折に織女様から頂きました。これには人の判断力を高める不思議な力があります。貴方に差し上げますわ」
 尤深は女から贈られた紫絲嚢を常に帯に下げた。それからの彼の人生は順調であった。とんとん拍子に試験に及第し、科挙の最終試験にも合格した。そして、成都の知県(注:県知事)に任じられた。尤深は女を連れて任地へ赴いた。
 知県になってからの尤深は目覚ましい手腕を発揮した。姦邪を摘発し、善政を施したのである。これには女の助力が大きかった。
 優秀な若き独身知県に地元の有力者はこぞって縁談を持ちかけた。しかし、尤深は全て断った。その頃から女は物思いに耽るようになった。
 ある日、女は尤深に言った。
「今日はお別れの杯を交わさねばなりません。先にも申し上げたように、私、故あって下界に流されておりました。実はその期限はとっくに終わっているのです。でも、貴方とお別れしたくないばかりに、天道に背いてここに留まっております。そもそも私は仙籍に連なる身、人としての肉体を持っておりません。老いることもなければ、死ぬこともないこの身では、貴方の子供を生むなど叶わぬことです。思えば思うほど切なくて、夕べ遂に泰山神君様に直訴しました。神君様は私の心情を察して、生者の名簿に私の名前を加えて、早速、人として生まれ変わらせて下さることになったのです」
 女の言葉を聞いて尤深は嬉しくもあり、また悲しくもあった。女が人として生まれ変われるのは確かに喜ばしいことであった。しかし、生まれ変わって、再会できる保証はなかった。そう思うと尤深は悲しくなり、ハラハラと涙を落とした。女は尤深を抱き寄せた。
「ああ、泣かないで。こんなに思い合っているんですもの、きっと会えます。そう、十五年、たった十五年の辛抱ですわ。その時にはたくさんの人に祝福されて夫婦になりましょう。そうして、いついつまでも仲睦まじい夫婦でいましょう。でも、心配ですわ。貴方はお一人で私のことを待っていられるかしら」
 尤深は誓いの言葉を口にしようとしたが、涙に咽(むせ)んで声にならなかった。女は尤深を抱き締めて暫く泣いていたが、やがて涙を拭き拭き立ち去った。
 女が立ち去ってからというもの、尤深は惚けたようになってしまった。朝に夕に女のことを思い、仕事が手に付かなかった。間もなく、職務上の些細な過失により知県の職を罷免された。
 その後も尤深の名声を慕って縁談を持ち込む者があったが、全て断った。

 いつしか十五年の歳月が経った。尤深は四十才になっていた。
 科挙の試験官の某という学士が尤深が独り身でいるのを哀れんで縁談を持ちかけた。尤深は勿論、断ったが、不意に落涙した。某に理由を問われるままに女との約束を打ち明けた。
「その約束の十五年になろうというのに、未だにどこでどうしているのやら分からぬのです」
 話を聞いた某は驚いた。
「それは本当かね?実は私の父方の従兄に娘がいて、確か十五になったはずだ。器量はいいんだけど、可哀相なことに生まれつき口が利けないんだ。まあ、字が書けるので筆談で何とかなっている。年頃になって幾つか縁談が持ち込まれるのだが、その都度、『待尤郎(尤様を待ちます)』と紙に書いて断ってるんだ。もしかして『尤郎』ってのは君のことじゃないだろうね」
 そう言うと、すぐさま尤深の腕を捉えて従兄の家へ走った。事情を聞いた従兄夫婦は早速、娘を尤深と対面させることにした。簾越しに尤深が坐って待っていると、軽い衣擦れの音が聞こえた。それに続いて、誰かが坐る気配がした。すぐに、簾の下から一枚の紙が差し出されてきた。そこには、

「紫絲嚢在否(紫絲嚢をお持ちですか)」

 と書かれてあった。尤深は紫絲嚢を帯から外し、簾の向こうに差し入れた。娘は紫絲嚢を手にすると、三度頷(うなず)いて涙を流した。
 早速、吉日を選んで婚礼を挙げることになった。杯を交わす夜、娘は嬉しそうに声を立てて笑った。初めて娘が声を出したのである。そして、そのまま卒倒してしまった。尤深は卒倒した花嫁を胸に抱いて介抱した。気が付いた時、花嫁は自分が夫の胸に抱かれていたので、恥じらった。話してみると、前世の記憶を一切失っていた。

 二人の仲の睦まじさは、どの夫婦にも勝っていた。

(清『子不語』)