白い手


 

 元年間(713〜741)に薛矜(せつきょう)という男が長安の県尉に任じられた。彼の担当は宮市(きゅうし、注:宮苑内に開かれる市のこと)の管理で、一日おきに東西に設けられた宮市を巡回してまわった。

 ある日、東の市場を見回りに行った薛矜は、市場の前に一台の婦人用の車が止まっているのを目にした。車の主の顔は見えなかったが、雪のように白い手がことのほか美しかった。
 薛矜はその手の美しさに心をひかれ、早速、部下に銀細工の小箱を持たせてその車へ近づいた。部下が口上を述べて小箱を差し出すと、婦人は侍女を介してその値段を問うてきた。そこで、部下が、
「これは長安の薛少府からの贈り物です。お車の主からおたずねがあったら、そのまま差し上げるよう申し付けられております」
 と答えると、婦人はうれしそうに何度も礼の言葉を述べた。これをきっかけに、薛矜が二言三言打ち解けた言葉をかけると、婦人はますます喜んで、
「私は金光門外に住んでおります。どうぞ、お越しになってくださいませ」
 と言った。薛矜は部下に命じて婦人の車を家まで送って行かせた。
 翌日、薛矜は自ら婦人の家を訪ねることにした。不思議なことに、その屋敷の前にはおびただしい数の馬がおり、どうやら多くの来客があるようで あった。どうしようかとためらっていると、客達は三々五々引き取っていった。そこで、部下に名刺を持たせて案内を乞うと、すぐに応対の者が迎えに出て応接間に通された。
 薛矜が待っていると、奥から侍女が現れて、
「奥様は今、お仕度の最中でございます」
 と言って下がっていった。一人残された薛矜は今か今かと待ち続けた。
 この後のことを思うと自然と顔がゆるんでくる。あれほど美しい手の持ち主と、近づきになれるなんてまるで夢のようだ。もしかして、夢なのかも?いやいや、これは現実だ。ほら、その証拠にこうしてみると熱いではないか……。
 薛矜はそう自問自答しながら、明々と照らされた灯火に手を近づけた。灯火は熱くなかった。熱くないどころか氷のように冷たい。途端 に心臓を掴まれるような恐怖に襲われた。
「奥へどうぞ」
 いきなり侍女に声をかけられ、薛矜は飛び上がりそうになった。何とか表面だけはとりつくろって、侍女について母屋へ通った。
 そこは一面に青い帳がめぐらされてた。奥に薄暗い灯りが一つともされているだけなのだが、不思議なことにその灯りはこちらが動くたびに遠くなったり、近づいたりして見えた。薛矜はここが生きた人間の住処でないことを悟った。この期に及んでも、彼は婦人に会いたかった。あれだけ美しい手の持ち主の顔を見ないで帰られようか。せめて一目会ってから帰ろう。
 しかし、怖いことには変わりはなかったので、心の中で『千手観音呪』を唱えた。
「こちらです」
 一室に通された。帳の中に婦人が薄絹のベールを被って坐っていた。薛矜はそのベールに手をかけたのだが、なかなかはずれない。婦人はとピクリとも動かず、白い手を膝に乗せたまま端座している。業を煮やした薛矜が力まかせにひっぱると、ベールがはらりと落ちた。やれうれしや、のぞき込んで仰天した。
 婦人の顔は長さ一尺(注:約30センチ)あまりもあり、青黒かった。しかも、ワンワンと犬の吠えるような声を出した。薛矜はその場に昏倒した。

 いつまで経っても出てこない主人を案じた従者が中に入ってみると、そこにはただ、殯宮(ひんきゅう、注:棺を安置する仮の霊廟)があるだけで、屋敷など跡形もない。従者は薛矜が中にいると見当をつけると、壁をあちこち叩いてみた。一角が崩れ、中に薛矜が倒れていた。呼吸は止まっていたが、胸のあたりにほのかな温みが残っている。近くの旅館に担ぎ込んだところ、ようやく息を吹き返した。
 薛矜は一月あまり経って、ようやく意識を取り戻したのであった。

(唐『広異記』)