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大力長者


 

 斉の稠(ちゅう)襌師は幼くして出家した。当時、寺には腕白ざかりの小坊主がたくさんおり、休憩時間になると相撲をとって遊ぶのが常であった。稠襌師は生来ひ弱だったので、小坊主達の格好な標的となった。相撲を取ると称してはつき転がされ、イジメの対象となったのである。これに、稠襌師は悔し涙を流すのであった。
 ある時、稠襌師は一人で本堂にこもると金剛力士像の足にしがみついて祈った。
「私はひ弱なために朋輩から馬鹿にされ、いじめられております。日に日にイジメはひどくなるばかり。もう耐えられません。いっそ死んだ方がましです。力士様は強力(ごうりき)の持ち主と聞いております。どうか私をお助け下さいませ。今日から七日間、私はこうして力士様の足をお抱き申し上げます。私に是非、力を。もしも、力をお授け下さらないのなら、その時には足下で死にます。もうあんな地獄の日々はまっぴらです」
 そして、その言葉どおり金剛力士像の足にすがって、一心に祈願した。
 最初の二日間は何の変化もなかったのだが、稠襌師の決意はますます固くなっていった。
 六日が過ぎ、七日目の夜明けを迎えようとしていた時、稠襌師の前に金剛力士が姿をあらわした。筋骨隆々としたたくましいその腕には大きな鉢を捧げ持っていた。鉢には人間の筋が山盛りになっていた。
 金剛力士は稠襌師に向かって言った。
「小坊主よ、それほど力が欲しいか?」
「欲しゅうございます」
「心の底からか? 」
「はい」
 金剛力士は捧げ持った鉢を稠襌師の前に突き出して言った。
「この筋を食えるか?」
「それはできません」
「どうしてだ?」
「私は出家の身です。肉を食うなど滅相もない」
 稠襌師はそう言って辞退したのだが、金剛力士は匙(さじ)で筋をすくって稠襌師の口に無理矢理に押し込もうとする。しかし、稠襌師は固く口を閉じて食べようとしない。すると、金剛力士は手にした杵をちらつかせて脅した。杵で殴られては死んでしまう、と稠襌師は観念してその筋をほお張った。味も何もわからなかったが、何とか食べ終わると金剛力士は言った。
「これでお前は強力の持ち主となった。以後は仏法を奉じてしっかり精進せよ」
 そして、姿を消した。気がつくと東の空が明るくなっていた。
 稠襌師が僧坊に戻ると、小坊主達が寄って来て、
「やい、チビ助、しばらく見かけなかったけど、どこで何してたんだ?」
 と問いつめた。しかし、稠襌師は答えなかった。
 朝食の時間となり、稠襌師が他の小坊主達と食事を済ませると、皆寄り集まって相撲を取り始めた。いつも通り稠襌師を寄ってたかって小突き回そうとすると、
「私には力があるから、君達はかなわないんじゃないかな」
 と言って取り合わない。小坊主の一人が試しにその腕を引いてみたところ、びくともしない。触ってみると、たくましい筋肉の盛り上がりが袈裟(けさ)越しにもわかった。
 驚く一同に稠襌師は言った。
「ちょっと試してみよう」
 一同を引き連れて本堂に入ると、壁にしがみついて西から東までおよそ数百歩ほども進んだ。また、梁まで飛び上がって首でぶら下がるような荒技を何度も見せた。一千鈞(きん)もの重さの物を軽々と持ち上げたりもした。その動きの敏捷なこと、力強いこと、まるで金剛力士そのものであった。今まで稠襌師をいじめて来た輩はこの様子を見て冷や汗を流し、まともにその顔を見ることもできなかった。

 後に稠襌師は悟りを開き、林慮山に寺院を営んだ。山を数十里も入ったところに華麗な庵や殿堂が甍(いらか)を連ねる壮大なものであった。稠襌師に付き従う僧侶は数千人にも達した。
 文宣帝は稠襌師の弟子があまりにも多いことを知って激怒した。そして、騎兵数万を率いて自ら誅戮(ちゅうりく)を加えようとした。文宣帝が林慮山の入り口に到着すると、稠襌師が弟子を連れて迎えに出ていた。
「こんなところで何をしている?」
 文宣帝に問いかけに、稠襌師は、
「陛下は拙僧を殺そうとしておられる。山中の伽藍が血で汚されてはと思って、こうして出てまいったのでございます。どうぞご存分に処罰なされませ」
 と慎ましやかに答えた。これには文宣帝の方が驚き、慌てて車から降りて己が非を詫びた。稠襌師は何とも答えない。そこで、文宣帝は急いで斎(とき)の用意をさせると、
「聞くところによると、師は金剛力士に祈願して強力を得られたとか。どうか強力の一端をお見せいただきたいのだが、如何なものだろう」
 と頼んだところ、稠襌師はようやく口を開いた。
「昔、私が得た力は人の力に過ぎませぬ。陛下には神力をお見せいたしましょう。ご覧になられたいですか?」
「見たい、見たい、見せてくれ」
 寺院を建立する時に各地から寄進された材木数千本が、谷の入り口に積み上げてあったのだが、稠襌師はそれに向って呪(まじない)いの言葉を呟いた。すると、材木が宙に舞い上がり、互いにぶつかり合い、雷鳴のようなものすごい音を立てた。その破片が雨あられと降り注いだ。
 文宣帝は大いに恐れ、侍従は主君を置き去りにしてその場から逃げ出した。破片の降ってこない安全なところまで逃げた文宣帝は、稠襌師に叩頭して呪いをやめてくれるよう懇願した。そして、寺の造営を認可する詔勅を下した。
 後に稠襌師は并州(注:現山西省)で経幢(きょうとう)の作成にたずさわった。しかし、完成を見ないうちに病床に就く身となった。臨終に際して嘆いて言った。
「生死は定めのあるもので、如来と言えども免れ得ないものだ。ただ、この業をなし遂げられなかったことだけが心残りだ。願わくば死後は大力長者となってこの業を続けられますよう」
 そう言い残して入滅(にゅうめつ)した。

 稠襌師の入滅の三十年後、隋の文帝が并州を通りかかった。稠襌師が入滅した寺院を見た途端、にわかに心に湧き起こるものがあった。ここは前世の自分が修行していた場所ではないだろうか?そして寺院を詣でたのだが、その振る舞いには僧侶の礼法をわきまえたものが見られた。文皇帝は并州に命じて寺院の大規模な改修と未完成の経幢の作成続行を命じた。
 時の人は隋の文帝のことを大力長者と呼んだ。

(唐『朝野僉載』)