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壮絶孝子


 

 子の年(康煕五十九年、1720)の中元の日、私(注:作者、金埴のこと)は河間(注:現在の河北省)の北の二十里鋪というところに泊まった。旅の埃を落そうとたらいで水浴びをしていると、突然、触れ回る大声が聞こえてきた。

 山東の孝子が母を背負って災害から避けてここまで逃れて来たとのことであった。しかし、母は力尽きて亡くなり、孝子はその骸を鋪の北の路傍に埋めた。十数年後、孝子は母の骸を引き取りに数千里の道のりを越えて来たのだが、地形はすっかり変わってしまい、その骸を求める術もなかった。それでも諦めずに孝子は三度、この地にやって来た。しかし、三度とも母の骸を見つけることはできなかった。
 絶望した孝子は天に一つの願をかけた。自分の髪の毛を鞍に縛り付け、母を埋めたとおぼしき地に伏して膝で歩くので、母を埋めた地に差しかかったならば、どうぞ鞍を止めてほしい、と。
 時は炎暑の盛りであった。孝子は裸で地を這った。腹は地に擦れて傷だらけになり、容赦ない夏の陽は背を焦がした。その体は血と日焼けで真っ赤になったが、母を求め悲しみ叫ぶ声は止まらなかった。
 辰の刻(注:朝八時)から申の刻(注:午後四時)までの間に数千人にも及ぶ観衆が集まったが、どの顔にも痛ましい表情が見られた。思わず知らず、悲しみの声が口をついて出、まるで林木が震えるかのようであった。
 観衆の見守る中、突然、鞍が動かなくなった。どんなに力を振り絞ってもびくともしない。孝子は飛び起きて天に向って叩頭した。
「天よ!母の骸はここにあるのですね。あの時は路傍だったのに、今では街道の真中になっていようとは!!」
 掘り返してみると、果たして骨が現れた。孝子が指をかじって血をたらしてみたところ、吸い込まれていく。孝子は骨を着物で丁寧にくるむと、観衆に向って泣きながらお辞儀をして立ち去った。

 私は急いでその場に駆けつけたのだが、あいにく間に合わなかった。一目孝子に会ってその姓名と住所でも聞いておけばよかったと、悔やまれて仕方ない。

(清『巾箱説』)