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恩義


 

 紅紅は大暦年間(766〜779)に代宗皇帝に寵愛された才人である。もとは父とともに流しの歌手をしていた。
 将軍韋青(いせい)の邸の前を歌を流しながら通り過ぎた時、その透き通るような歌声を耳にした韋青がこの父娘を呼び止めた。声の主である紅紅は非常に美貌であった。韋青はその声と美貌を愛し、紅紅を妾として邸に入れた。父の方にも裏手に一軒の家を与え、その生活の面倒を見てやった。
 紅紅の芸はそれまでは日銭を稼ぐためのものにすぎなかったが、もともと音楽の才能に恵まれていたのであろう。韋青が音律など基礎から一つ一つ伝授したところ、すべて会得してしまった。
 ある時、宮中の楽工が韋青のもとを訪れ、古楽の『長命西河女』を今様に編曲したものを披露した。その際、韋青は紅紅を召し出して屏風の後ろでこの曲を聴かせた。紅紅は豆を数合用意すると、豆を使ってその拍子を記録していった。楽工が歌い終わると、韋青は紅紅に声をかけた。
「どうかね?」
「全部、憶えました」
 韋青は楽工を顧みて言った。
「私に女の弟子がおりまして、すっかりこの曲を憶えてしまいました。ですから、厳密には新曲ではなくなりましたな」
 そこで韋青が命じて屏風の後ろから紅紅に歌わせてみたのだが、一節もはずさなかった。楽工は驚嘆し、紅紅と対面すると、賞賛の声を惜しまなかった。
「この曲には一節だけ安定しないところがあったのですが、紅紅殿が正確に歌ってくれたおかげでそれも正されました」
 このことは楽工から帝の耳に達した。翌日、帝の詔で紅紅は宜春院(ぎしゅんいん)へ召し出された。
 帝の寵愛は並々ならぬもので、宮中の人々は紅紅を「曲娘子(きょくじょうし)」と呼んだ。ついで紅紅は才人となった。

 ある日、帝のもとに韋青の死が伝えられた。紅紅は韋青の死を知ると、嗚咽(おえつ)した。
「私はもとは大道の芸人として乞食をいたしておりました。老父に穏やかな老後を過ごさせ、その最期を見取ることができましたのも、また、こうして宮中に入ることができましたのも、すべて韋青様のおがけでございます。そのご恩義にそむくことができましょうか」
 そして、ひとしきり慟哭した後、息たえた。

 帝はその心根を嘉して昭儀の位を追贈した。

(唐『楽府雑録』)