飢饉救済


 

 宋の皇祐二年(1050)、呉地方(注:現江蘇省一帯)が大飢饉に見舞われ、道端には餓死者の屍が無数に横たわっていた。当時、范文正が浙江西部を治めていたのだが、穀物を放出して江蘇の飢民を救済する際、一つの策を講じた。
 呉地方の人はペーロンと仏事が好きであった。范文正は呉地方の人々に存分にペーロンを楽しませ、自らも休日ごとに湖で宴を催した。毎日のように何らかの行事があるので、人々は町を空にして遊興に明け暮れた。このようなことが春から夏まで続けられた。
 また、范文正は各仏寺の住職を集めてこう命じた。
「飢饉の年には工賃が安くなるから、大いに土木工事を起こすべし」
 この命を受けて仏寺は盛んに普請を始めた。穀物倉や官舎も新築したので、日に千人の人夫を必要とした。
 監察官は范文正を飢饉救済を行わず、遊興にふけり、むやみと土木工事を起こして民力を消耗している、と弾劾(だんがい)した。それに対して范文正はこう答えた。
「遊興と土木工事を行ったのはすべて一部の金持ちが保有している財を吐き出させて貧者に恵もうとしてのことである。これらの遊興や土木工事のおかげで、商売、飲食、土木工事に携わる者すべてが潤うのだ。これで食を得た者は一日におよそ数万人にのぼる。飢饉救済にこれほど有効な策があろうか」

   近年では飢饉に際してお上の穀物を放出し、民を集めて土木工事を行うことは法令となっている。范文正は飢饉を救済しただけでなく、民の利益も図ろうとしたのだから、古の聖君の政にも比すべきことである。

(宋『夢渓筆談』)