済南の美女


 

 和年間(1119〜1125)、済南(注:現山東省)の太守公邸では幽鬼が美女の姿で現れ、しばしば太守を惑わした。

 林震が太守となった時のことである。赴任してすぐ、公邸で働く奴隷達の中にすらりと背丈の高い美女を見かけた。ごく地味な服装で身を飾るものは何一つつけていなかったが、その美貌は一際目を引いた。
 林震は儒者であったので、不審に思いながらも身元を追求することははばかられた。その後、公邸で何度か宴が開かれたが、美女の姿は見られなかった。不審に思って側近に尋ねてみると、そのような奴隷はいないとのこと。誰に聞いても同じ答えが返ってきた。林震は自分が見たのは幻ではないかと混乱した。
 林震が一人で表座敷にいるところへ、例の美女が入ってきた。林震は美女に魅了され、ねんごろな仲となった。
 以来、美女は林震の家人とともにあったが、何の問題も起きなかった。

   ある日、二人の女児が表座敷で遊んでいるそばを例の美女が通りすぎたのだが、偶然、衣の裾が女児の顔に当たった。これを見ていた人が美女を叱りつけた。美女は笑って女児のところへ戻ると、女児の頭を背中へ向けてねじった。すると、女児の頭は後ろを向いたまま戻らなくなってしまった。家中、大騒ぎとなり、ようやく美女が妖魅(ようみ)であることに気づいた。
 林震は時の宰相何執中の婿であったので、この怪異は徽宗(きそう)の知るところとなった。徽宗の命で法師が派遣されたが、妖魅を調伏することはできなかった。そこで林震を汝州(じょしゅう、注:現河南省)へ異動させることにした。

 汝州に赴任してまもなく、林震は亡くなった。

(宋『鶏肋編』)