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猛妻弱夫


 

 括(しんかつ)は翰林院(かんりんいん)を振り出しに、外交軍事面でも手腕を発揮してその才名を広く知られていた。多才有能な政治家であり、博覧な学者でもあった彼にとって最大の悩みの種は後添いの張氏であった。非常に凶暴で、遼や西夏を前にして一歩もひくことのなかった沈括でさえ手を焼いた。
 怒り狂った張氏が沈括を罵り殴りつけたことがある。殴るだけでは満足しなかったのか、沈括の鬚(ひげ)を引きむしるなり投げ捨てた。驚いた子供達が駆け寄って鬚を拾い上げてみれば、根元には血や肉がついている。子供達が父のために泣き叫んで許しを乞うても、張氏は一向に気にとめなかった。
 沈括には先妻との間に博毅(はくき)という長男がいた。張氏はこれを追い出してしまったのだが、沈括は隠れて生活の援助を続けていた。張氏はこのことを知ると激怒し、博毅の悪逆非道ぶりを訴え出た。沈括は家庭内の不祥事を治めることができなかった責めを負って、秀州(注:現浙江省)に左遷された。
 張氏の無道ぶりは限度を超えたもので、役所に乗り込んでは夫の悪口を言いふらした。家人は裸足でその後を追い、懸命にとりなすのだが聞かない。見かねた親戚の勧めもあり、張氏と別居することにした。こうして沈括の生活に平穏がもたらされた。
 紹聖初年(1094)に沈括は中央に復帰した。実に十余年ぶりのことであった。
 その時、張氏が病で急死した。生前の悪妻ぶりを知る人々は、葬儀の席で沈括に祝いを述べたものである。不思議なことに沈括は呆けたようになっていた。あまりにぼんやりとしすぎて、船で揚子江を渡る時にもう少しで水に落ちそうになり、周りの人に助けられたほどであった。
 しばらくして、沈括も亡くなった。張氏の死からわずか一年後のことであった。

 長い間、張氏の暴虐に苦しめられて心の落ち着く間もなかったのが、ようやく解放されたというのにどうしてこうなってしまったのだろう。思うに張氏の獰猛ぶりは並大抵ではなかった。死んでもその亡魂が沈括を苦しめ続けたのではないだろうか。

(宋『萍州可談』)