十文字


 

 の開元年間(713〜741)の末のことである。
 洛陽の安宜坊(あんぎぼう)に一人の書生が住んでいた。ある夜ふけに門を締めて本を読んでいるところへ、隙間から頭をさし入れてのぞく者があ る。厳しく誰何(すいか)すると、
「私は幽鬼です。ちょっとお付き合い願いたいのですが。外へお出で下さいませんか」
 と言う。書生は剛毅なたちだったので、言われるままに外へ出た。
 幽鬼は地面に十文字を書いてから、先に立って歩き出した。道々、立ち止まっては同じように地面に十文字を書き残す。やがて安宜坊の木戸を出て寺の前へさしかかった。書生が、
「せっかくだからお参りしていこう」
 と言うと、
「私に着いて来て下さればいいのです」
 と素通りしてしまった。
 ほどなくして定鼎門へ着いたが、夜更けなので門が閉まっている。幽鬼は書生を背負ってわずかな隙間をすり抜けた。五橋(ごきょう)まで行くと道端に家が一軒あった。住人はまだ起きているようで、その天窓から中の灯りがもれていた。
 幽鬼は書生を背負うと、天窓に飛び上がった。見れば、一人の女が子供の前で泣いており、そばでは男がうたた寝をしている。幽鬼が天窓から飛び降りて手で灯りを覆うと、女はびくっとして辺りを見回した。そして、寝ている男を叱りつけた。
「坊やが死にそうだというのに、よく寝ていられるわね。急に灯りが暗くなったんだけど何かしら。ねえ、ちょっと見てちょうだいよ」
 男はしぶしぶ起き上がって、灯りに油をつぎ足した。
 幽鬼は女を避けるようにして子供に近寄ると、いきなり子供をつかんで持参した袋に入れた。子供は袋の中でモゾモゾ動いていた。幽鬼はその袋を担ぎ、書生を背負って天窓から外へ出た。
 幽鬼は書生を家まで送り届けると、礼を述べた。
「私は子供をあの世へ連れて行く役目をしております。この役目は生きている人に付き添ってもらわないと果たせません。そこで、あなたにご足労いただいたのです。どうもお手数をおかけいたしました」
 そう言って立ち去った。

 翌朝、書生は兄弟を連れて昨夜歩いた道筋をたどることにした。幽鬼がつけた十文字がすべて残っていたので、それを目印に歩いていくと、五橋の近くの家まで続いていた。
 聞いてみると、昨夜遅く、子供が亡くなったとのことであった。

(唐『広異記』)