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紅い猫


 

 安(注:現杭州)北門外の西巷に、孫三という蒸し肉売りの老人が住んでいた。年老いた妻との二人暮しで、子供はなかった。毎朝、肉を売りに出る時、必ず妻にこう言いつけていた。
「猫ちゃんをよろしく頼むよ。都にはうちの子みたいな猫はおらんからの。うっかり外に出したりして、人に見られないようにな。さらわれるようなことにでもなったら、ワシは生きてはおられん。年老いて子のないワシにとって、あの猫ちゃんは我が子と同じだから」
 薄い壁一枚で隔てられた下町のこと、孫三の言葉は隣近所に筒抜けである。誰もまだ孫三の猫を見たことがなかったので、一体、どのような猫なのだろう、と想像をふくらませた。

 ある日、孫三の家の門が開き、猫が外へ飛び出してきた。妻が慌てて抱き上げて連れ帰ったのだが、その猫の姿に人々は度肝(どぎも)を抜かれた。頭のてっぺんから尻尾の先はおろか、鬚の一本一本にいたるまで紅いのである。
「見たか?」
「見た、見た」
 これなら隠したくなるのも無理はない、と一同納得した。
 孫三が戻ってからが大騒動であった。猫が外へ出たことを知った彼は、妻を竹の鞭で打ちすえた。
「ワシの大事な猫ちゃんを外へ出すとは!事故にでも遭ったらどうするつもりだ」
 妻を打ちすえる音は、深夜まで続いた。
 孫三の紅い猫の噂はだんだんに広まり、やがて宮中の宦官の耳に達した。宦官は孫三のもとに人を遣わし、高額で猫を買い取りたいと申し出た。
「ワシは貧しくはありますが、今日のメシにありつけさえすればそれで御の字です。余計な金をもらったとて、何の役に立つでしょう。猫ちゃんさえいればそれでよいのです。あの子はワシの命です、人に売るなんてとんでもない」
 孫三はきっぱりと拒絶した。宦官の使者が孫三をなだめたりすかしたりするうちに値段は徐々につり上がり、銭三百貫で譲ることに決まった。
 孫三は泣きながら猫の代価を受け取った。その後、妻をしたたかに打ちすえた。しばらくの間、猫を手放したことを嘆き悲しむ孫三の声が近所にも聞こえた。
 一方、猫を買い取った宦官は大喜びであった。この猫を飼いならしてから、帝に献上するつもりで手元に置いておいた。
 しばらく経って、何とも不可思議なことが起きた。次第に猫の毛並みが色あせていくのである。半月もすると、猫は真っ白になってしまった。慌てて孫三のもとを訪ねてみると、すでに引っ越した後であった。

 何のことはない、白い猫を紅い染料で染めていただけのことだったのである。妻に言いつけたのも、打ちすえたのも、すべては芝居であった。

(宋『夷堅志』)