暗殺行(四)


 

 年近く経ったある日、荊軻がおもむろに口を開いた。
「私が太子のお側に侍ってそろそろ三年になろうとしております。太子は私を厚くもてなし、黄金を亀に投げることもお許しになれば、千里の馬の肝や美人の双手をも惜しげなくお与え下さいました。普通の人間ならば誰しも喜んで命を投げ出し、お役に立とうとするでしょう。しかし、死に方にも色々ございます。烈士の節義では、死が泰山よりも重いとされることもあれば、鴻毛(こうもう)より軽いとされることもあると聞き及んでおります。私の命の捨て所はどこなのでしょう?太子よ、お教え下さい」
 丹は襟を正し、態度を改めて答えた。
「私は以前、秦へ人質として参りました折、甚だ無礼な扱いを受けました。あの恥辱、決して忘れることはできません。秦は不倶戴天の敵です。荊殿は私を不肖と見なさず、このような小国へいらして下さった。その荊殿に何とお答えすればよいのか……」
 と、口ごもった。
 すると、荊軻はうなずいて言った。
「列国を見るに、秦に勝るものはありません。この状況下で太子が列国に号令することは無理ですし、列国も太子に与(くみ)するようなことはできかねるでしょう。太子は燕一国を率いて秦にあたるしかありません。しかし、それでは羊を飢えた狼に立ち向かわせるようなものです」
 すべて承知している、という口ぶりであった。
「私もずっとそれを案じておりました。どうしたらよいのでしょう」
「樊将軍は秦王の怒りを買って亡命してまいりました。秦王は将軍の返還を求めています。また、督亢(とくこう、現河北省)の地をも併呑(へいどん)しようと狙っております。樊将軍の首と督亢の地図さえあれば、秦王に近づくのはたやすいことです」
 丹は愕然(がくぜん)とした。
「樊将軍の首ですか?」
「そうです、これがなくてはどうにもなりません」
「それは……それはできない。燕一国を差し出せと言われれば、差し出しもしましょう。しかし、樊将軍の首は差し出せません。将軍はこの天下に身の置き所をなくして、私を、この丹を頼ってきたのですよ。それを殺すなんて、義に背くようなこと、私にはできません」
 荊軻は黙って引き下がった。

 五ヵ月が過ぎた。丹は荊軻が動こうとしないのを見て、怖気づいて二の足を踏んでいるのではないかと疑った。その真意を探るためにこう言った。
「秦の大軍は趙を破り、今にも易水を渡りそうな勢いです。事態は急を要しております。まずは武陽を秦に送り込んでみようと思うのですが、いかがなものでしょう?」
 いつもは表情を変えない荊軻がこの時だけは憤然(ふんぜん)とした。
「太子はあの小僧に大事を任せようというのですか!送り込んだところでそれきり、その程度の男です。私が動かないのは同行者を待っているからなのです」
 荊軻はその足で樊於期のもとを訪ねた。
「聞くところによれば、秦王は将軍の一族を誅殺したあげくその屍(しかばね)を焼き払ったとか。また、将軍の首に千斤の黄金と万戸の領地という賞金をかけたとも聞いております。秦王の仕打ちはあまりにもひどすぎる。私も憤りを感じております」
 樊於期はそう言われるとため息をついて涙を流した。
「将軍の怨みを晴らし、燕の憂いをとこしえに除く策があると申し上げたら、どうなされますか?」
「まことそのような策、ありもうすのか?」
 樊於期は思わず身を乗り出した。
「それがしは罪もなく殺された家族や一族のことを思って、涙を流さない日はござらぬ。どうしたらこの怨みを晴らせるのか、荊殿、是非ともお教え願いたい」
「将軍、その首をもらい受けとうございます」
 荊軻は樊於期の目を見据えて言った。
「今、秦王が欲しているものは将軍の首と督亢の地図です。私がこの二つを持参すれば、秦王は喜んで引見するでしょう。この機に乗じて、私は左手でその袖を捉え、右手でその胸を刺します。燕に背いた罪を数え上げ、将軍への仕打ちを責めなじってやります。燕の恥辱もすすがれ、将軍の怨みも晴らせましょう」
 樊於期は荊軻の話を聞くと、晴れ晴れとした顔で立ち上がった。そして、刀を自分の首筋に当て、
「これこそ、それがしが日夜思い続けてきたことでござる。荊殿、よくぞお教え下された」
 と言うなり、首を掻き切った。首は目をカッと見開いたまま後ろに転がり落ちた。それに続いて首を失った体が倒れた。荊軻は樊於期の屍に向かって深々と拝礼した。
「将軍の死、決して無にはいたしません」
 知らせを聞いた丹は馬を飛ばせて駆けつけ、樊於期の屍に伏して号泣した。しかし、事ここに到ってはどうしようもなく、秦王に献上するため、樊於期の首と督亢の地図をそれぞれ美麗な箱に収めた。

 

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