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暗殺行(五)


 

 の日のうちに荊軻は秦へ向かって出立することにした。燕国一の勇士と名高い秦武陽が同行者に選ばれた。丹や事情を知る者達は喪服を身につけて、易水のほとりまで見送った。荊軻が道中の平安をことほいで歌った。

  風、蕭蕭として易水寒く
  壮士、ひとたび去ってまた還らず

 高漸離(こうぜんり)が筑を鳴らし、宋意がこれに和して歌った。見送りの人々は悲壮な歌声に髪を逆立て涙を落とした。
 荊軻と秦武陽は車に乗り込み、二度と振り返らなかった。夏扶(かふ)が車の前で自ら首を刎ねて餞(はなむけ)とした。

 荊軻と秦武陽が秦の都、咸陽(かんよう、現陝西省)に到ると、中庶子の蒙白(もうはく)が政に取り次いだ。
「燕の太子丹は大王のご威光を畏れかしこみ、叛将(はんしょう)樊於期の首と督亢の地図を献上して、北辺の藩屏(はんぺい)となることを願っております」
 政はこれを聞くと非常に喜び、荊軻と秦武陽を引見することにした。玉座の下には文武百官が居並び、宮殿の外には矛を手にした衛士が数百人も控えていた。
 荊軻が樊於期の首を、秦武陽が督亢の地図を捧げ持って石段を登って宮殿に入ると、鐘と太鼓がいっせいに打ち鳴らされた。それを合図に群臣が、
「万歳、万歳、万歳」
 と叫んだ。それだけで武陽はすくみ上がり、足が震えて一歩も進めなくなってしまった。政が怪訝(けげん)な顔をするので、荊軻が武陽を振り返ってみれば、その顔からはすっかり血の気が失せ、紙のように真っ白になっていた。
 荊軻は前に進み出ると政を恭(うやうや)しく拝した。
「この男は北辺未開の地に住む田舎者、これまで天子にまみえたことがございません。何とぞ寛大なお気持ちで、御前での使命を果たさせてやって下さいませ」
「さようか。荊軻よ、督亢の地図を持ってまいれ」
 荊軻が武陽の捧げ持った地図を取って政に献じた。政が地図を広げると、中から匕首(あいくち)が転がり出た。その途端、荊軻は政に飛びかかり、左手でその袖を掴み、右手で匕首を拾い上げた。
「秦王、無道なり!」
 荊軻は政の胸に匕首を突きつけて呼ばわった。
「燕との友好に背き、長い間圧迫した。これ、罪の一つ。列国を飽くことなく併呑しようとした。これ、罪の二つ。罪もない樊於期の一族を皆殺しにした。これ、罪の三つ。この荊軻が皆に代わって成敗してやる」
 政は腰の長剣を抜こうとしたが、慌てていて抜くことができない。また、群臣も突然のことに度を失い、なす術を知らなかった。
 荊軻は匕首を握る手に力を込めて続けた。
「ただし、今、燕王の母君がご病気で、私にこうも仰せになられた。言うことをきけば助けてやってもよい。さもなくば殺せ、と」
 政は観念したように言った。
「こうなったからにはお前に従うしかないな。お願いだ。琴を聞いてから死なせてくれ」
 荊軻が許したので、早速、寵姫が召し出された。寵姫は琴の音色を微妙に調節して政に暗号を送った。

  薄絹の単(ひとえ)は引けば破れます
  八尺の屏風も飛べば越えられます
  鹿盧(ろくろ)の剣は長くても、背負えばすぐに抜けまする

 荊軻にはただの琴の音としか聞こえなかったが、普段から聞きなれている政にはその意味がわかった。袖を力いっぱい引っぱると簡単に破れた。荊軻がのけぞった隙(すき)に屏風を飛び越えると、剣を背負って抜き、猛然と反撃に出た。
 思わぬ形勢逆転に荊軻はたじろいだが、すぐに体勢を立て直すと、渾身の力をこめて匕首を政に向かって投げつけた。しかし、匕首は政の体をかすめて銅の柱に中り、火花を散らした。
 政の長剣が一閃して荊軻の両腕を切り落とした。荊軻は手近の柱に寄りかかると、あぐらをかく形で坐り込んだ。その肩がかすかに震えていた。政が不審に思いながら近づいてみると、荊軻は笑っていた。
 荊軻は政を罵った。
「事を安易に考えすぎて、小僧にまんまといっぱい食わされたな。燕の怨みも晴らせず、我が望みも果たせなかったわ」
 政の長剣が荊軻の体を刺し貫いた。

 一方、燕では荊軻が出立して以来、丹は天象(てんしょう)に注意していた。
 ある日、白虹が太陽を貫くという現象が見られた。しかし、よく見てみると虹は太陽に突き刺さっているだけで、完全には貫いていなかった。丹は嘆いた。
「大事はならず」 

 後に荊軻が殺され、計画が失敗したことを知らされた。その時、丹は、
「すでにわかっていた」
 と答えた。

(漢『燕丹子』)

 

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