断橋の女


 

 治年間(1488〜1505)のことである。
 臨安府(現杭州)旬宣(じゅんせん)街に住む徐景春(じょけいしゅん)という若者が、春の一日、西湖のほとりへ遊山(ゆさん)に出かけた。断橋まで来た時にはすでに夕暮れ近くで、道行く人もまばらになっていた。
 そこへ向こうから麗人が小間使いを連れてやって来た。麗人、何やら行き悩んでいる風に見えたので、景春は丁寧にお辞儀をして声をかけた。
「お嬢さん、こんなところで何をしておいでですか?」
 麗人は安堵(あんど)した表情で答えた。
「親戚の者と玉泉(ぎょくせん)まで来たのですが、あまりの人の多さにはぐれてしまいました。道もよくわからぬままウロウロしております」
「お宅はどちらで?」
「ここよりずっと北の湖墅(こしょ)に住まいしております孔家の二姐(じしゃ)でございます」
 とのこと。それならばということで、景春は家まで送って行くことにした。
 無事送り届けていざ帰ろうとすると、麗人は景春の袖を捉えて離さない。
「このままお帰しするわけにはまいりませんわ。私の気持ちがすみません」
「いえいえ、そういうわけにはまいりません。いきなり若い男を連れて帰ったりしたら、ご両親が驚かれるでしょう」
 そう言って帰ろうとすると、麗人は言った。
「二親(ふたおや)もない寂しい身の上です。若様、どうか私を一人にしないで下さいまし。ね、今宵(こよい)はこちらにお泊まりあそばせ」
 景春も、そこまで言われるなら、とその晩は泊まることにした。麗人に誘われるまま、景春は夢のような一夜を過ごした。
「これを私達の契りの証(あか)しといたしましょう」
 麗人はそう言って、景春に双魚をかたどった扇の根付けを贈った。
 明くる日、徐家の隣人の張世傑(ちょうせいけつ)が墓のそばに倒れている景春を見つけた。父親が景春の倒れていた墓について調べると、孔家の淑芳(こうしゅくほう)という娘が葬られていることがわかった。
 お上に訴え出て墓をあばいたところ、怪しいことは起こらなくなった。

(明『西湖遊覧志餘』)