菊花(前編)
順
天(注:現在の北京)の人、馬子才は菊好きで知られていた。
世間にも菊好きはごまんといたが、彼の菊好きは並外れていた。よい菊があると聞けば、たとえ千里の彼方でも買いに駆けつけるほどであった。
ある日、子才の家に滞在していた金陵(注:現在の南京)からの客人が、従兄弟の家に北方にはない菊が一、二種あったはずだ、と言った。これを聞いた子
才、いても立ってもいられず、早速旅支度を整えると、その客人について金陵にまで出向くことにした。
金陵ではその人が方々手を尽くしてくれたおかげで、珍種を二株ほど入手することができた。まるで宝物を得たかのように大事にしまい込み、帰途についたのであった。
その途中、幌馬車の一行と出会った。一行といっても驢馬に跨った青年が一人と、その前を行く幌(ほろ)馬車一台だけである。青年の瀟洒(しょうしゃ)な雰囲気を好ましく思った子才は追いかけて声をかけてみた。青年は快く応じ、
「陶姓の者です」
と名乗った。陶青年の話しぶりはまことに爽やかであった。子才が金陵へ菊を買いに行って戻る途中だと言うと、青年は、
「菊は種の良し悪しではなく、ようは育て方次第ですよ」
と笑った。これをきっかけに二人は意気投合し、菊の栽培法について語り合った。子才は同好の士を得たと嬉しくなり、どこへ行くのかとたずねてみた。
「姉が金陵にいるのを嫌がるので、北へ行くところです」
「住む所はお決まりですか」
「いえ、まだ。行けば何とかなるとは思うのですが」
それを聞いて子才はますます嬉しくなった。
「なら、うちへいらっしゃい。私のうちは順天にあるんですよ。あばら家ではありますが、お泊めするくらいできます。ねえ、どうでしょう。そうすれば、家を探す手間もはぶけるというものでしょう」
陶青年は驢馬を幌馬車に寄せて、
「姉さん」
と声をかけた。すると簾(すだれ)が掲げられて、二十歳くらいの絶世の美女が顔をのぞかせた。陶青年が子才の話をすると、
「家は粗末でもいいの。庭さえ広ければ」
と答えた。それを聞いた子才がすかさず、
「庭なら広いです」
と口を挟むと、美女はニッコリと微笑んで簾を下ろした。こうして子才は陶青年とその姉を連れて帰ることになった。
子才は順天に戻ると、屋敷の南のはずれの小さな離れを陶青年に提供した。三、四部屋しかないあばら家ではあったが、北側が広い庭に面していた
ため、陶青年と姉は喜んでそこに住んだ。
以来、陶青年は毎日、庭に出ては子才の菊作りを手伝うようになったのだが、不思議なことに枯れた菊を陶青年が根ごと引き抜いて植えかえると、必ず息を吹き返すのであった。陶青年は菊作りにこれだけ卓越した技量を持ちながらも、その生活ぶりは清貧そのもので、いつも子才の家で飲み食いしていた。察するに煮炊きをほとんどしていないように見受けられた。
子才の妻の呂氏も陶青年の姉に好意を抱き、何かと生活の面倒を見てやっていた。姉は黄英といい、話好きでしばしば呂氏の所に来ては、縫い物や糸紡ぎをして過ごした。
そんなある日、陶青年がこんなことを言い出した。
「お宅もあまり生活が楽ではないご様子。こうして毎日、食べさせていただいてはご迷惑をおかけするだけでしょう。これからは菊を売って暮らしを立てていくつもりです」
子才は菊を売ると聞いて不快感を隠せなかった。陶青年は子才の立腹など気にもとめない様子で笑って言った。
「私は君を風雅な人物であえて清貧に甘んじていると思っていたのに。菊を売ろうだなんて…。菊に対する冒涜(ぼうとく)じゃないか」
「自立して食べていくだけです。貪欲なわけでもありますまい。それに花を売ることは卑俗なことではありませんよ。思いますに必要以上に富を求めるべきではないけれど、まあ、わざわざ貧しさを求める必要もないでしょう」
しかし、子才はムッとしたまま返事をしなかった。
このことがあってからも陶青年は変わりなく子才のもとを訪れては菊作りを手伝った。ただ、子才の捨てた枝や間引いた苗を拾って持って帰るようになった。以前のように子才のもとで食事を済ませるようなことはなくなったが、招けば喜んでやって来た。
やがて菊の季節がめぐってきた。子才は陶青年の家の前が騒がしいのに気がつき、のぞきに行って驚いた。
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