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偽皇孫事件


 

 隆四十五年(1780)春、帝が南へ巡幸する途中、タク州(現河北省)に滞在した時のことである。
 僧侶が一人の童子を連れて、謁見を申し出た。僧侶は童子を指して言った。
「履端王の二番目のお子にござります」
 僧侶の言によれば、履端王の側妃が並外れて嫉妬深く、まだ襁褓(むつき)のうちに外に出された。これを憐れんだ僧侶が引き取って今日に至るま で養育したと言った。
 履端王は諱(いみな)を永[王成](えいせい)と言い、帝の第四子で、履恭王の名跡を継いだ。側妃の王氏を非常に寵愛していたが、次子を生んだのは別の妃であった。この子には帝がじきじきに命名した。王が帝に随って[シ欒]陽(らんよう、現河北省)へ赴いた折、痘瘡(とうそう)で亡くなったという知らせが届いた。
 王府の人々は王氏が殺したのだと噂したのだが、真相は明らかにならなかった。
 帝もこの件については耳にしたことがあった。そこで、王の正妃伊爾根覚羅(イルゲンギョロ)氏にたずねてみると、
「お子が亡くなった時、私はその亡骸(なきがら)を撫でさすって泣きました。王氏が害したなどありえないことです」
 とのこと。
 帝は童子を都に送り、軍機大臣に詳しく調査させることにした。
 童子の容貌は端正で、物腰には威厳が備わっていた。軍機処で諸大臣と対面したのだが、動ずる色は少しもなかった。童子は和[王申](ホセン)の名を呼んでこう言った。
「和[王申]よ、ここへおじゃれ。そちはおじじ様の近臣じゃ。天子の骨肉を埋もれさせるようなことはするでないぞよ」
 諸大臣にはその真偽を判別しかねた。その時、章京(ジャンギン)の成保が童子に歩み寄ると、いきなり平手でその頬を打った。
「お前はどこの村の童(わっぱ)だ。天下を欺こうとは大胆な。一体、誰に入れ知恵されたのだ?」
 途端に童子は真っ青になって洗いざらい白状した。童子は樹村の劉姓の子供で、すべては僧侶に指示されたことだと言った。
 僧侶は斬罪に処せられ、童子は伊犂(イリ、現新疆ウイグル自治区)へ流された。
 童子は後に流刑先で皇孫を騙(かた)り、民衆をまどわしたので、松[竹+均](しょういん)に斬罪に処せられた。

 履端王府の楊という太監(たいかん)から、次のような話を聞いたことがある。
「履端王の二番目のお子が痘瘡にかかられた時、王氏が別の子供の屍(しかばね)とすりかえました。すりかえられたお子は、小姓の薩凌阿(サリン ガ)が荒野に捨てられました。正妃が撫でさすったというのはニセの屍でしょう」

 これが事実ならば、僧侶が童子に吹き込んだことにもそれなりの根拠があったようである。

(清『嘯亭雑録』)