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三月三日


 

 の武帝が尚書郎の摯虞(しぐ)にたずねた。
「三月三日に曲水で宴をするのはなぜだ?」
 摯虞が答えるには、
「後漢の章帝の御世に、平原の徐肇(じょちょう)という人がおりました。この人に三月一日に三人の娘が生まれたのですが、三日には皆、死んでしまいました。村人はこれを怪しいこととし、連れ立って水辺に行き、禊(みそ)ぎをして流れに盃を浮かべました。これが曲水の宴の始まりです」
 とのこと。武帝は、
「何だ、あまりめでたいことではないのだな」
 と言って、表情を曇らせた。すると、尚書郎の束皙(そくせき)が進み出てこう答えた。
「摯虞は若輩者ゆえ、知らないのです。昔、周公が洛邑(らくゆう)を造営した時、流れに酒を浮かべました。また、秦の昭王が三月上巳(じょうし、三月三日のこと)に河のほとりで宴を張った時、河から金人が現れて水心剣を奉じ、西の地を与えることを約束しました。秦が諸侯に覇を唱えるようになると、これを記念してその地に曲水祠を建てました。漢もこれを受け継いで、その祀りは盛んになりました」
 武帝はこの答えにいたく満足し、束晢に金五十斤を下賜した。摯虞は城陽令に左遷された。

(六朝『続斉諧記』)