聞妙庵の尼


 

 庭山(現江蘇省)には多くの尼寺がある。中でも聞妙庵(ぶんみょう)の庵主は裕福なことで知られていた。庵主が八十余歳で亡くなった時、庵には莫大な財産が残された。弟子の静香(せいこう)という尼僧が跡を継いで住職となった。この静香尼、二十歳あまりの若さながら挙措(きょそ)は典雅で、書や算術に巧みで、経典にも広く通じていた。また、よく戒律を守り、めったなことでは人前に姿を現さなかった。

 毎年、開祖の生誕日には近辺の士女が庵を訪れ、焼香するならわしになっていた。境内にも多くの露店が店を開き、たいそうなにぎわいとなった。露店では小説や講談などの本も売られ、静香尼も何冊か買い込み、つれづれのなぐさみにするのであった。則天武后の故事や楊貴妃が女道士となったことなどは、普段から読み知っていた。
 ある日、一人の道士が庵を訪れた。静香尼が応対したのだが、道士は頬にまばらに髯を生やし、飄々(ひょうひょう)としたその雰囲気には俗気はみじんも見られなかった。語り合ってみると、その言葉はすこぶる玄妙で謎めいた比喩(ひゆ)を多く用いた。
「お人払いを願います」
 道士はあたりをはばかるように声をひそめた。静香尼が不審に思いながらも、皆を遠ざけた。道士は人がいなくなると、静香尼の前に跪いた。
「あなた様は近いうちに国母になられますぞ。私めはは五百年もの間、修行を積んでまいりましたが、いまだに真人の称号を得ておりません。国母になられました暁には、どうか私めに真人の称号をお授け下さいませ」
 静香尼は突然のことに顔を赤らめた。
「国母だなんて、何を世迷(よま)い言(ごと)を。私は出家の身ですよ」
 道士は何度も叩頭してから、飄然(ひょうぜん)と立ち去った。
 静香尼の頭から道士の不思議な言葉は離れず、日々の勤行(ごんぎょう)も怠りがちになった。
 ある日、貴人が庵を訪れた。
「病を養うために、数部屋お貸しいただきたい」
 静香尼は西の院を貸すことにした。
 その貴人は年の頃は三十あまり、すらりとした長身で、品のある端整な容貌をしていた。従者に伽羅(きゃら)、龍涎(りゅうぜん)、安息などの香料や火浣布(かかんぷ)を持たせて静香尼に贈った。すべて珍しい舶来品(はくらいひん)ばかりであった。
 静香尼は礼を述べに西の院を訪れたが、貴人は会うことを拒んだ。
 二月あまりが過ぎたが、貴人は尼僧達を遠ざけ、言葉を交わさない。その身元は誰も知らなかった。
 ある日、貴人は固く戸締りをすると、下僕を連れて下山した。静香尼は好奇心から合鍵を使って西の院に入ってみた。室内は見たこともない珍しい品物であふれていた。
 机の上に小箱が一つ置いてあった。開いてみると、一通の書状が出てきた。

 臣某、謹んで上奏します。
 すでに島内中の軍勢が集まっております。軍費銀二十万が集まりしだい、すぐにも日を選んで軍船を率いて、彼の国を攻撃します。その不備に乗じれば、易々と我らの手に落ちるでしょう。
 静香尼が驚いているところへ貴人が戻ってきた。
「密書をごらんになられたのか! 気の毒だが、秘密を守るために死んでもらおう」
 そう言って壁にかけた剣を下ろすと、今にも斬りつけようとした。静香尼は地べたに額をすりつけて命乞いをした。貴人は静香尼を見下ろして何やら考え込んでいたが、おもむろに口を開くとこう言った。
「余は日本国の王だ。こちらへ来る前、国師が余の将来を占ったのだが、この旅で国母と出会うであろうと予言された。もしやその国母とはそなたのことではあるまいか? 余に従えば、命を助けてやるぞ」
 静香尼は道士の言葉を思い出した。静香尼は恥じらいながら答えた。
「喜んで御意に従います」
 そして、二人は衣を解いて歓を尽くした。
 ことがすんでから、静香尼は貴人にたずねた。
「あの小箱の中の文は何でございましょう?」
「あれか。中国へ来る途中、暹羅(シャム)国の羅華(らか)島を通りかかった。広さ数千里、住民も多く、物産も豊かであった。あの島を奪って、日本国の領土に加えようと思い、軍勢の準備を進めていたのだ。ただ、我が国から彼の地までは遠く、兵糧はすぐには届かない。昨日、密書を受け取り、急いで帰国しようとしたのだが、あいにく風向きが悪くて船を出すことができなかった。それでこちらに戻ってきたのだ」
 貴人の口ぶりからはいら立ちが感じ取れた。
「その戦にはどれくらい必要なのですか?」
「うむ、銀子が二十万もあれば何とかなるのだが……」
「それくらい、私にも用意できますわ。ただ、どうやって運べばよいのでしょう」
「心配ない、余は術を心得ている」
 翌日、静香尼は蔵を開いて、貴人に銀子二十万を贈った。貴人が従者に何やら言い含めて下山させた。しばらくすると、裸足の男達数百人が庵に集まってきた。男達は皆、さいづち髷(まげ)を結い、細身のぴったりした着物を着ていた。貴人が聞きなれぬ言葉で命令を下すと、男達は銀子を背負い、列を作って続々と山を下りて行った。

 二月あまり経って、貴人のもとに一通の密書が届いた。
 羅華島は抵抗することなく降伏いたしました。速やかに彼の地に駐屯して人心を安撫(あんぶ)なされませよ。
 貴人は朗報に接して大いに喜び、すぐにも出発しようとした。これから先どうなるのだろう、と静香尼が不安の色を隠せないでいると、貴人が優しく言った。
「そなたはしばらくここで待て。帰国したら必ず大臣を遣わして、そなたを正妃として我が国に迎えようから」
 静香尼は安堵した。そして、新たに五万両の銀子を貴人に贈った。
「兵士へのねぎらいにお使い下さい」
 貴人は慌しく立ち去った。

 静香尼は貴人の迎えを待った。しかし、迎えの者が聞妙庵を訪れることはなかった。

(清『翼ケイ稗編』)