蚕の復讐
湖州(こしゅう、現浙江省)では多くの人が養蚕(ようさん)を生業(なりわい)としており、しばしば蚕(かいこ)にまつわる不思議なことが起きた。
弘治年間(1488〜1505)に太倉(たいそう、都にある政府の米倉)の孫廷慎(そんていしん)が安吉(あんきつ、現浙江省)へ米の買いつけに遣わされた。その途中、[白+十]林(そうりん)で、巡邏(じゅんら)の一隊が三人を引き立てて行くのと出会った。聞けば、当地の豪族伍氏の使用人だという。
伍氏でも毎年)を飼っているのだが、今年は桑のできが悪く、すべての蚕を養うことができそうになかった。そこで、地面に穴を掘って、十かごあまりの蚕を生きたまま埋めてしまった。
伍氏は三人の使用人に桑の葉を買いに舟で市場へ行かせたのだが、手に入らなかった。仕方なく舟で戻る途中、突然、一匹の大きな鯉が飛び込んできた。ざっと見ただけでも数斤はあろうかと思われる大物であった。三人は主人へのよい手土産ができた、と喜び、舟をこぐ手にも自然と力が入った。
[白+十]林へさしかかったところ、巡邏が懸命に櫓(ろ)をこぐ小舟に不審の念を抱いた。何か後ろめたいことがあって、急いで巡邏の目を逃れようとしているのではないか、と疑ったのである。そこで、舟を止めさせて積荷をあらためると、人の片足が出てきた。驚いたのは三人の方である。わけのわからないまま縛り上げられた。
三人は浙江按察司へ送られて、死体のありかを白状するよう厳しく取り調べられた。三人は鯉が飛び込んできたことと、舟をあらためられた時にはなぜか鯉が人の片足になっていたことを述べた。しかし、信じてもらえない。拷問に耐えかねて、三人はとうとう苦しまぎれに罪を認めてしまった。
「確かに人を殺しました。死体は家の敷地に埋めてあります」
早速、人をつけて伍氏の家へやり、死体のありかを指し示させることにした。その途中で孫廷慎と出会ったのであった。たいそう興味をひかれた孫廷慎は、自分も伍氏の家までついて行くことにした。
三人は死体が出てこなければ、疑いも晴れるだろう、と思い、蚕を埋めた場所を指した。掘り返してみると、蚕は一匹も見当たらず、片足のない人の死体が埋まっているだけであった。これだけの証拠が揃ってしまうと、冤罪(えんざい)でも申し開きのしようがない。結局、三人の使用人だけでなく、伍氏の主人も罪に服することとなった。
このことは一時江南でたいそう噂になり、ついには都にまで伝わった。
伍氏があまりにも多くの蚕の命を損なったので、蚕に恨まれたのであろう。蚕でさえ恨みを抱くのだから、人の命を左右する司直はもっと慎重に裁きを下さなければなるまい。
(明『治世余聞』)