女 夜 叉


 

 行寺(きょうぎょうじ)に行蘊(こううん)という僧侶がいた。行蘊は寺中の僧侶の頭領を務めていた。
 ある年の初秋、寺では盂蘭盆会(うらぼんえ)の準備のために仏殿を掃き清めて仏具を並べ、さまざまな飾りつけを施した。
 監督に当たっていた行蘊は、仏前に供えられた蝋細工の天女像に目を止めた。天女は手で蓮華を捧げてニッコリ微笑んでいた。その紅い唇は今にもはじけて、笑い声がこぼれ出そうであった。まことに見事なできばえで、その艶麗(えんれい)さは生き身の美女にもまさるものと思えた。
 行蘊は天女像を指さして笑った。
「まことこの世にこれほどの美女がいるならば、拙僧は喜んで妻に迎えましょう」

 その夜中、行蘊の僧房の扉を叩く者があった。
「蓮華娘子(れんげじょうし)がまいりましたわ」
 行蘊はいぶかしんだ。
「お上の取り締まりが厳しいのはご存知でしょう。すでに門は閉まっているのに、どうやってここまで入ってこられたのです?」
 行蘊が扉を開けると、夜目にも艶やかな美女が腰元を連れてたたずんでいた。美女は言った。
「私は多くの善果を積み、あと少しで悟りを開くところまでまいりました。それが今日、あなたのお言葉を聞いた途端、心に俗世へのあこがれが生じ、人界へ落とされてしまいました。あなたのお側に置いていただくつもりで、こうして訪ねてまいりましたのよ。まさか、昼間のことをお忘れになられたのでしょうか?」
「拙僧は蒙昧無知(もうまいむち)ではありますが、出家の戒律はよく存じております。一体、どこでお会いしたのでしょう? 拙僧にはとんと覚えがござらぬが。もしかして拙僧をからかっておいでなのではありますまいか?」
 美女は身もだえして嘆いた。
「ああ、情けなや。師傅(しふ)は仏殿で私をごらんになったではありませんか。その時、私のような美女を妻にしたい、とおっしゃられたこともお忘れなのですか。このお心に私は感動して身を託しにまいりましたのに」
 そう言って袂から蝋細工の天女像を取り出した。行蘊はようやく美女の正体が人間ではないことを知った。
 あまりに突然のことに行蘊がぼう然としていると、美女は腰元を連れて僧房に入ってきた。
「露仙(ろせん)や、床を延べておくれ」
 露仙と呼ばれた腰元は手際よく行蘊の僧房に帳をめぐらし、褥(しとね)を敷いた。いずれも行蘊が今まで目にしたこともない華麗な品であった。
 行蘊は戒律を破ることが恐ろしくもあったが、すでに女の美貌に心を奪われていた。しばらくためらってから、こう言った。
「拙僧もできることならあなたと行く末を誓いたい。しかし、出家の戒律がありますから、あなたをここに置くことはできません。ああ、どうすればよいのでしょう」
 美女は笑って言った。
「私は天女ですよ。どうして俗界の戒律などに縛られなければならないのです。それほどご心配なら、あなたにご迷惑のかからないようにしましょう」
 美女は恐れかしこまる行蘊の手を取って帳の中に導き、優しく抱きしめた。行蘊は震えながら美女に身を委ねた。灯火が吹き消された。

 僧房は薄い壁一枚で仕切られてるだけなので、すべて隣の僧房に筒抜けであった。行蘊の僧房を美女が訪れたことを知った小坊主達は好奇心にかられて壁に耳をつけ、盗み聞きをした。
 突然、行蘊の悲鳴が聞こえ、バタバタと駆け回る足音が続いた。続いて争うような音が聞こえた。小坊主達は灯りを手に行蘊の僧房に駆けつけた。しかし、扉は中から固く閉じられており、開けることができない。中ではまだ激しく争っているようであった。うなり声、引き裂く音、かじる音、そして噛み砕き、飲み込む音が続いた。
 やがて、低い声でこう言うのが聞こえた。
「このくされ坊主め。出家の身でありながら、どうして邪念を起こすのだ? たとえあたしが人間の女でも、お前のような奴の女房になるのはごめんだよ」
 小坊主達は震え上がって大人の僧侶達を呼びに走った。僧侶達が駆けつけ、手斧で壁を破ると、僧房の中には二匹の女夜叉がいた。その牙はのこぎりのようで、針金のような髪が逆立っていた。身の丈は見上げるばかりで、真っ赤な口を開いて一声咆(ほ)えると、牙をむき、爪で威嚇(いかく)しながら外へ飛び出した。
 僧房に行蘊の姿はなく、血だまりが残されているだけであった。

 翌朝、僧侶達が仏堂に行くと、仏前で蝋細工の天女像がニッコリ微笑んでいた。傍らの壁には二匹の女夜叉を描かれ、その口元にはベットリと血がついていた。

(唐『河東記』)