侠僧


 

 の建中(780〜783)の初めのことである。

 韋生という人が家族を連れて汝州(注:現在の河南省)への路を急いでいた。家族には婦女子が多く、また多くの家財道具を携えていたため、その歩みは遅々たるものであった。韋生自身、豪胆な気性で知られた人で、自ら先頭に立って道中の安全に気を配っていた。
 山越えの途中、数人の従僕を連れた僧と出会った。韋生は時候の挨拶をした後、馬を並べて共に語らい始めたのだが、この僧、闊達(かったつ)ですこぶるうまが合った。気が付くと、日が山の端に没しようとしていた。一行はちょうど岐路に差しかかった。僧は鞭で一方の道を指し示した。
「ここから数里先に拙僧の寺がございます。ここでお会いしたのも何かのご縁。折角ですからお立ち寄り下され」
 それは汝州へ向う道ではなかったが、韋生はこの申し出を快く受け入れた。僧は従僕に韋生の家族を先導するよう命じ、後から韋生と二人、ゆっくり語り合いながら馬を進ませた。
 岐路から十里ほど進んだのだが、寺らしきものなど陰も形も見当たらない。韋生の心中に疑念がきざした。僧は韋生の不信を察したのか、林の向こうに立ち昇る一筋の煙を指し示した。
「あそこです」
 さらに前進したが、その時には日は既にとっぷりと暮れていた。この頃にはもう、韋生の僧への疑念は動かしがたいものとなった。韋生は馬の足を止めると、僧を責めて言った。
「私にはこれから先の予定があります。お坊様のお誘いで、こうして寄道をすることになりました。それなのに、二十里も来てもまだ到着しないとは一体どういうことでしょう」
 韋生の詰問に対して僧は、
「すぐ先ですから」
 と答えただけで、そのまま先に行ってしまった。実は韋生は弾き弓の名手で、その腕前は百発百中であった。彼はいつも長靴に弓を隠し持っていたが、今、それを取り出して弾丸を装着した。
 僧は韋生が足を止めたことに気付かないようで、背を向けたままどんどん先へと馬を進めて行く。韋生は弾き弓を構えた。この時、僧は百歩ほど先を進んでいた。韋生は狙いを定めて、引き金を引いた。弾丸は僧の後頭部に吸い込まれるように命中した。しかし、僧は何事もなかったかのように、馬の歩を進ませている。カッとなった韋生は続けざまに四発、弾丸を発射した。いずれも命中したが、僧は平然としている。最後の弾丸が命中した時、僧はようやく手を上げて頭をさすった。

「いやはや、若様、悪さがすぎますぞ」

 敵わないと悟った韋生は弾き弓を下ろした。そのまま、黙々と僧の後に従った。
 しばらくして、ある屋敷に着いた。数十人が、かがり火を焚いて待ち構えていた。僧は韋生を客間に案内してくれたのだが、韋生はむっつりと押し黙ったままだった。僧は笑いながら言った。
「若様、ご心配には及びません」
 それから、控えている従僕を振り返ってたずねた。
「奥様やお嬢様へのおもてなしは、きちんとできているだろうな」
 従僕が答える代わりに深々と頭を下げた。
「さあ、若様、こちらへどうぞ」
 僧は離れへ韋生を案内した。妻や娘が華やかに調度を凝らした部屋で韋生の到着を待っていた。一同手を取り合って無事を喜び合った。
 韋生は僧への無礼を詫びた。僧は韋生の手を取って言った。
「若様が看破なさった通り拙僧は盗賊です。正直なところ、初めはよからぬことを考えて若様ご一行に近付きました。しかし、若様があれほどの腕前をお持ちだとは思いもよりませなんだ。拙僧でなければ、とっくに死んでおりましたことでしょう。今日は安心して拙宅でおくつろぎ下さい。そうそう、先程の弾丸ですが、ほれこの通り」
 僧は手で頭をつるりと撫でた。すると、バラバラッと弾丸が五発、散らばり落ちた。ちょうど、そこへ従僕が宴席の支度ができたと呼びに来た。
 僧は韋生を上座に坐らせた。目の前には一頭丸ごと蒸し上げた小牛が出された。僧が小牛に向って刀子を投げると、その都度、肉がこそげ落とされ、従僕が皿に受けた。
「実は拙僧には義弟が何人かおります。お目通りさせたく存じます」
 僧はそう言うと、手を打った。すると、朱の衣に幅の広い帯を締めた屈強な男が五、六人が階下に居並んだ。
「若様を拝むのだ。お前達が逆立ちしても敵わぬお方だからな。もし、お前達が先程、若様にお会いしていたら、今頃肉味噌になっておったわ」
 食事が済んでから、僧はしみじみと言った。
「拙僧は長らく盗賊稼業に携わって参りました。こうして年を重ねるにつれ、己の犯した過ちが悔やまれてなりません。不幸なことに、一人いる息子は拙僧に勝る腕の持ち主でございます。こやつに父と同じような過ちを犯さぬよう、今のうちに始末して頂きたいのでございます」
 それから、
「飛飛!若様にご挨拶なさい」
 と呼ばわった。その声に応じて、一陣の旋風が部屋に飛び込んできたかと思われた。旋風の主は飛飛であった。年の頃は十六、七歳、袖の長い碧の衣を粋に着こなし、短い馬の鞭を帯にたばさんでいる。雪白の頬に朱の唇、漆を点じた如き瞳、素晴らしい美少年である。僧は叱りつけるような口調で命じた。
「奥で若様のお世話するんだ。粗相のないようにな」
 飛飛は身を翻すと、飛び出して行った。その姿を見送った僧は韋生に剣を一振りと弾丸を五発、授けて言った。

「若様、あれを殺して下さい。拙僧の煩いの種を消して下され」

 僧は韋生を奥の一棟に導くと、扉を開けて中に入るよう促した。
「よろしくお願いします」
 韋生が中に入ると、僧は頭を深々と下げて外からしっかりと鍵を掛けた。
 建物の中は何もない広間で、ただ四隅に灯が灯されているだけであった。飛飛は正面に鞭を手に立っていた。韋生は飛飛に向けて弾き弓を構えた。飛飛は恐れ慌てる風もなく、手にした鞭を弄んでいる。韋生は弾き弓の引き金を引いた。
 命中した、と韋生は思った。その時、飛飛は軽々と宙を舞い、手にした鞭で弾丸を叩き落としていた。飛飛の足は壁を走った。韋生は弾き弓の狙いを定めようとしたが、その動きに追いつけなかった。
 飛飛は壁を蹴り、梁を飛び越えて床に下り立った。そこへ韋生がすかさず弾き弓を発射したが、飛飛は体を仰のけにして躱(かわ)した。そのまま床に倒れるのかと思われたが、クルリと回って体勢を立て直し、見事に両足で立ち上がった。その身の軽さはまるで飛鳥のようであった。
 残りの弾丸も飛飛の体をかすることなく、全て射つくされた。そこで、韋生は剣を抜き放って、飛飛に斬りつけた。飛飛は一瞬のうちに身を躍らせると、一回転して韋生の頭上を飛び越えた。ものの一尺も離れていなかった。その時、韋生は飛飛の顔に楽しそうな笑みが浮かんでいるのを見た。韋生は飛飛に向かって幾度も剣を振るったが、いずれも鞭の先を切り落としただけで終わった。遂に飛飛にかすり傷一つ負わすことすらできなかった。
 その時、扉が開けられた。
「若様、ご首尾は」
 僧が顔を覗かせた。僧は息子が無傷でいるのを見ると、ため息をついた。そして、哀しそうに息子を振り返って言った。
「飛飛よ、これでお前が盗賊となるだろうことは保証されたぞ。かくなる上はどうしたらよいのじゃ…」

 僧は韋生を客間に連れて戻り、夜通し語り合った。話題は剣や弓矢などの武器に関することで、息子の飛飛のことには一切触れなかった。
 夜が明けてから、僧は韋生一行を岐路まで見送ってくれた。絹百疋を餞別とし、涙を流して別れた。

(唐『酉陽雑俎』)