離魂(前編)
唐の天授三年(652)のことである。衡州(こうしゅう、注:現湖南省)の地方官に張鎰(ちょういつ)という人がいた。息子はなく娘が二人いたが、長女は早くに亡くなり、次女が一人残るだけだった。次女は名を倩娘(せんじょう)といい、評判の美人だった。張鎰はゆくゆくは良い婿を取って老後を安泰に暮らそうと思っていた。
張鎰には王宙という甥があり、幼い頃に両親を亡くしていたため手許に引き取って一緒に暮らしていた。王宙は頭も姿もよく、張鎰も可愛がって、よく冗談にも、
「倩娘を嫁にやろう。きっと似合いの夫婦になるぞ」
と言っていた。奥への出入りも許されていたため、倩娘とも親しく口を利く間柄になり、年格好も釣り合うことからお互いに慕い合う仲となっていた。
ある日、外出した王宙は街で一つの鏡に目を留めた。思えばまだ倩娘に自分の思いを伝えたことがなかった。そうだ、この鏡に思いを託そう。王宙はそう考えてその鏡を買い求めると、倩娘に送ってそれを愛情の証とした。何の変哲も無い鏡であったが、倩娘は非常に喜び朝な夕な己の姿を映していた。しかし、張鎰はこのことを知らなかった。ある時、張鎰は倩娘を呼んで言った。
「お前ももう年頃だ。一生の大事を決めねばな」
倩娘はてっきり王宙のことだと思い、恥ずかしそうに俯くと、こう答えた。
「私はお父様の良いようになさって下さったら異存はありません」
「そう言うだろうと思って、ちゃんと考えてある。ほれ、お前も覚えているだろう?幕客の柳毅(りゅうき)だが、最近やっと職を得てな、あれがどこでお前を見初めたものか是非にと言っておる。どうかな?」
倩娘は俯いたまま答えない。張鎰は、これは恥じらっているのだろうと決め込んで、そのままにしておいた。
こちらは王宙、この話を耳にするなり机を叩いて歯がみした。
「伯父上は私に倩娘をくれると言っていたではないか。私に後ろ盾が無いからって馬鹿にして」
そのまま怒りにまかせて張鎰のもとへ駆け込んだ。
「伯父上、長きにわたって孤児であった私を慈しんで下さってどうもありがとうございました。私ももう大人です、自分の食い扶持は自分で稼ぎとうございます。つきましては都へ職を探しに行こうと思っているのでございますが、伯父上の許可を頂きに参りました」
「何を急に…。もうじき倩娘も嫁に行く。それまで待ってもよいではないか」
倩娘と聞いて王宙はますますいきり立った。
「いいえ、待っていては好機を逃します。今すぐにでもご許可を」
王宙のあまりの剣幕に張鎰もなす術がなく、都行きを許可することにした。王宙は急いで旅立ちの用意を済ませると奥へ挨拶に行ったが、倩娘は姿を現さなかった。何でも急に部屋に閉じこもって誰とも口を利かないとのことであった。王宙は張鎰に別れを告げると、そのまま船に乗り込んだ。
その日の夕方、船は二、三里離れた山裾の村に泊った。王宙は最後の最後に倩娘に会えなかったことが心残りで、夜も眠られなかった。眠れないとなると、思うことは倩娘のことばかりである。あの倩娘が他人のものになってしまうのだ。何でさらってでも連れて来なかったのだろう、としきりに後悔された。
その時、遠くで人の走って来る足音が聞こえた。今は真夜中である。じっと耳を澄ませていると次第に近付いてくる。船のそばで止った。王宙が船室の扉を開けると、そこには息をはずませた倩娘が立っていた。
「倩娘!!」
王宙は飛び上がらんばかりに喜び、思わず倩娘に抱き付いた。倩娘の体は夜露ですっかり冷え込んでいた。
「まずは中に入れて下さいな」
倩娘の手を取って船内に導くと、なんと裸足である。
「ずっと駆けづめに駆けて参りましたのよ。あなたに追いつけなかったらどうしようかと思いましたわ。あなたは突然出て行ってしまわれるし、このまま家にいても結婚させられてしまうし、もう死んでもいいと思って家を抜け出して参りました」
王宙が倩娘を見ると、夜気の中を走って来たので頬は上気し、髷は傾き、いつにもまして艶やかである。白い足は夜露に濡れ、あちこち草で切った小さな傷があった。
「私、身一つで参りましたの。あなたから頂いた鏡も置いて来てしまいました」
「いいんだ、鏡なんて。これからいくらでも買ってあげるよ。君がそばにいてくれさえしたら、もう何も要らないよ」
愛おしさがこみ上げて来て王宙は自分の体温で倩娘の冷え切った体を暖めようと懐に抱き締めた。